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信州長野の旅と歴史
信州・長野市の旅    戸隠・鬼無里

白髯神社
しらひげじんじゃ
長野県長野市鬼無里日影
Tel 026-224-5042 長野市役所観光課


 白髯神社は白鳳年間(645-710)、天武天皇がこの地へ遷都の計画し、その鬼門鎮護の守護神として三野王と小錦采女臣筑羅らが猿田彦命を勧請したのが創立といわれています。
 白髯神社は、白髯大明神とも呼ばれ、旧日影村の鎮守として祀られていました。安和2年(969)には鬼女紅葉退治の勅命を受けた平維茂が白髯神社を訪れ戦勝祈願をしています。治承4年(1180)には木曽義仲が戦勝祈願をした後、京都に上り平家を打ち破ったと伝えられています。
 石造の鳥居をくぐって長い石段を上りきったところに白髯神社の拝殿が建てられています。入母屋造りの拝殿の後ろにコンクリートの覆屋が設けられ、本殿はその内部に納められています。
 白髯神社本殿は、室町時代に建てられたこけら葺き、流造りの一間社です。建立当時から覆屋の中に建てられていて、彩色も非常によく残っているそうです。木鼻や虹梁、懸魚などに当時の神社本殿建築の特徴が見られ、国の重要文化財に指定されています。
白髯神社本殿



十二神社
じゅうにじんじゃ
長野県長野市鬼無里中田5919
Tel 026-224-5042 長野市役所観光課


 鬼無里には湖沼伝説や紅葉伝説など様々な伝承が言い伝えられています。舟繋ぎの樹といわれる伝説では、昔ここが湖で、船繋ぎの樹という巨木に船を繋いでいたそうです。十二神社の対岸の飯縄社まで舟で渡り、戸隠へ参拝したと伝えられています。
 十二神社の入り口に建つ鳥居の形式も「波よけの鳥居」とも呼ばれ、十二神社の定紋が帆船を模った形をしている両部鳥居になっています。
 寛政元年(1780)、長国寺住職千丈実巌がこの伝承を聞き
 傳聞盤古代 山聳燗泥中  曾有停船客 今留繋纜蹤 藤縄掛神木 雲氣接竜宮  堪感滄桑変 誰能究劫空 
と詠んでいます。
  社殿は拝殿とその後ろに本殿があり、本殿は覆屋の中にあります。本殿は流造りで、安永8年(1779)に建てられたもので長野市の有形文化財に指定されています。



松巖寺
しょうがんじ
長野県長野市鬼無里320
Tel 026-256-2061


 松巖寺は鬼女紅葉(もみじ)の守護仏といわれる地蔵尊を祀ってある紅葉ゆかりのお寺です。安和年間(968-969)、平維茂が鬼女紅葉を退治し、その霊を鎮めるために地蔵尊を安置した鬼立山(きりゅうざん)地蔵院がありました。
 慶長3年(1598)松巌芳祝(しょうがんぼうしゅく)禅師が入山して、師の名から松巌寺と改め曹洞宗になりました。徳川幕府は寺領を寄進し、帰依した真田家は高40石の諸役を免じています。
 紅葉はもと官女で、源経基と不義の恋の果て鬼無里に流刑になりました。新倉山の岩屋に移り住み、盗賊の頭になって近隣を荒し回り、鬼女と恐れられましたが、冷泉天皇の勅命を受けた平維茂に打ち取られます。鬼のいなくなった里になったことから鬼無里と呼ばれるようになりました。
 境内地は約2700平方mで、本堂、庫裏、経蔵、観音堂、山門を備えています。本堂の欄間には曹洞宗の開祖・道元禅師の一代記が彫られていて、格天井には見事な花鳥画がはめられています。
 松巌寺の境内には鬼女紅葉の墓といわれる石塔があります。隣には鬼女紅葉家臣の墓も建てられています。
鬼女紅葉の墓



諏訪神社
すわじんじゃ
長野県長野市鬼無里財又東9766
Tel 026-224-5042 長野市役所観光課


 諏訪神社は健御名方命・誉田別命・大山祚命を祀り、地域一帯を守護する産土神の旧村社として建てられました。寛永6年(1629)の再建の時に、3社を併置し、元禄6年(1693)には3社を一つにまとめました。
 神社の入り口には両部鳥居が建ち、社殿の後ろから入っていく形です。拝殿は妻入りの入母屋造りで、本殿は後ろにある覆屋の内部にあります。

 諏訪神社の本殿は鬼無里村では唯一の立川流の社殿で、文化2年(1805)に建てられています。木割や彫刻は立川流の技法を持ち、長野市の有形文化財に指定されています。
諏訪神社本殿
 諏訪神社宝蔵は天保10年(1839)の棟木銘を持つ校倉作りの建築です。平成17年(2005)長野市の有形文化財に指定されています。
諏訪神社宝蔵



鬼無里・奥裾花自然園
きなさ・おくすそばなしぜんえん
長野県長野市鬼無里
Tel 026-256-3188 鬼無里観光振興会


 奥裾花自然園は新潟県境に近い裾花川の源流部にあります。標高1616mの奥西山南麓に昭和42年(1967)、明治100年記念事業として長野県により開発されました。一帯は日本の秘境百選や、林野庁の「水源の森百選」にも選ばれています。
 園内には、日本一といわれる80万本以上のミズバショウの大群落があり、春のゴールデンウィークから6月上旬頃まで一面に広がる白い清楚な姿をみせてくれます。園内の周りには樹齢300年から400年のブナやトチの原生林が取り囲んでいます。近くにある奥裾花渓谷は日本百景に選ばれています。
 鬼無里には、昔、鬼が住んでいたそうです。村人が、鬼を退治しようとしたとき鬼が一夜に山を作って、村人達が入れないようにしたそうです。その後、朝廷から派遣された武士が鬼を退治したそうです。鬼がいなくなったので、鬼無里村と名づけられたということです。
 鬼無里は木曽義仲ともゆかりが深く、土倉文珠堂は義仲の守護仏が本尊と伝えられています。木曽殿アブキにも義仲とその遺児の話が伝わっています。遷都計画や紅葉伝説、木曽義仲とのゆかりなど、鬼無里の里が京の都との交流の深さがうかがえます。



戸隠神社
とがくしじんじゃ
長野県長野市戸隠3506
Tel 026-254-2001 中社社務所


 戸隠神社は、戸隠山の麓にある中社、宝光社、奥社、九頭龍社、日之御子社の5社の総称で、天照大神の天の岩戸開きの神話伝説にゆかりの神々を祀っています。
 九頭龍社は奥社の横に、日之御子社は中社と宝光社の中間にあります。通常は、奥社、中社、宝光社で戸隠3社と呼ばれています。
 戸隠神社の創建は第8代孝元天皇の5年(BC210)、天照大神が隠れた天岩戸を開け、岩戸をこの地まで投げ飛ばしたという大力の神・天手力雄命を勧請したのが始まりといわれています。
 天武天皇14年(685)に朝廷から3人の朝臣が派遣され仮の宮が造られました。嘉祥2年(849)に行者によって新たに戸隠山顕光寺が開山され別当となり、神仏混合の全国有数の聖地となりました。
 33もの岩窟は修験霊地とされ、多くの修験僧が修業に訪れるようになりました。平安時代には比叡山の荘園であったといわれ、戸隠3千坊と呼ばれる中部地方の修験の中心地として栄え、比叡山、高野山と共に「3千坊3山」の1つに数えられました。
 奥社が創建された後に宝光社が創建されました。宝治元年(1087)に時の別当が「当山は三院たるべし」という夢告を受け、両社の中間に中社が創建されたといわれています。現在、中社には21の宿坊(社家)があり、戸隠講の御師として各地を巡っているそうです。
 戦国時代は、上杉、武田両軍の兵火による被害を受け一時衰退しましたが、上杉景勝により再興されました。江戸幕府からは庇護され、1千石の朱印状を賜り、「戸隠法度」が定められ、社寺奉行が管轄しました。
 明治時代の神仏分離令と廃仏希釈により、仏式が廃され、多くの仏像や法具を手放し戸隠神社として独立しました。

 戸隠神社の中社は戸隠の中心に鎮座し、「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」を祀っています。素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという神です。
戸隠神社中社
 中社の境内には樹齢900年に及ぶ三本杉がそびえています。この杉は鳥居を中心に正三角形に位置していて、八百比丘尼の伝説の杉だといわれています。
 若狭国小浜の漁師が人魚を殺し、誤ってその肉を三人の子に食べさせたところ三人とも人魚になってしまいました。漁師はその罪を悔い、戸隠山に籠もり、杉の木を3本植えたそうです。その伝説が残る杉なのです。
戸隠神社中社

 戸隠神社の奥社は戸隠山の麓にあり、戸隠神社の御本社です。天照大神が天の岩屋に隠れた時、無双の神力をもって、天の岩戸を開いたという天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀っています。
戸隠神社奥社

 中社から奥社に行くには2km以上、参道を歩かなければなりません。杉並木が延々と続きます。自分が小さくなったと錯覚しそうです。これらの杉は長野県の天然記念物に指定されています。
戸隠神社奥社
 歴史の風情を感じさせる藁葺き屋根の「随神門」は左右に右大臣・左大臣が控えています。積雪の時期は随神門で祈念参拝される方も多いそうです。屋根には草が生えて独特の雰囲気を出しています。
戸隠神社奥社随神門
 奥社まではるかに続く杉並木。樹齢400年。300本のクマスギが私達を別世界へと誘います。吉永小百合さんのJRの宣伝で訪れる人が驚くほど増えました。往復1時間少しの森林浴を楽しめます。
戸隠神社奥社
 鎌倉・室町時代は有数の修驗霊場として山岳信仰の聖地で、修験道場跡が残されています。戦国時代、戸隠神社の境内が越後と信濃をつなぐ要地にありました。川中島の戦いでは諜報の交差する場所でもありました。
戸隠神社奥社
 天照大神が天の岩戸に隠れたことを知った神々は、大神が隠れた岩戸の前に集い神楽を催して大神の気を惹こうとしました。一方、天照大神も外の様子が気になり、岩戸をそっと開けたところ、その瞬間を待ち受けていた手力雄命が、無双の怪力をもって天の岩戸をこじ開いたそうです。
戸隠神社奥社
 そのとき、命によって開かれた岩戸は遥か遠くまで飛ばされ戸隠の山に落ちたといいます。九州の高千穂から遠く信濃の奥戸隠まで飛ばしたというのです。
戸隠神社奥社
 奥の院の鳥居から石段を下がった左側には戸隠の氏神である「九頭龍大神」の院があります。
 奥院本殿では戸隠講の方が参拝され御祓いを受けていました。院の下には奥社社務所があり戸隠神社の宮司さんが交代でお守りしています。
戸隠神社奥社


竹細工センター
 戸隠竹細工は約400年の歴史を持っているそうです。標高1200mの雪深い地が、通称「根曲がり竹」というしなやかな竹を育てるのだそうです。どのおみやげ屋さんにも竹細工製品は並んでいますが、体験したいなら「戸隠竹細工センター」です。


戸隠流忍法資料館
 有名な「戸隠流忍法」は、木曽義仲の家臣だった仁科大助が寿永年間(1182-)に戸隠で修行したことから始まっています。そんな伝統ある忍法を体験できるのがここです。




大座法師池
だいざほうしいけ
長野県長野市上ケ屋
TEl 026-239-3185 飯綱高原観光協会


 満々と水をたたえる大座法師池は飯綱高原入り口にあります。カラマツやシラカバの林に囲まれたこの池の周囲には飯綱高原キャンプ場・大座法師池ボート場・アスレチック施設(小天狗の森)があり大自然が楽しめます。
 この大座法師池は巨人デーダラ法師が飯綱山に腰を下ろし、湿地にはまった足を引き抜いたところに水がたまってそのまま池になったと伝えられています。20分で池をひと回りできる遊歩道が整備されています。



旧長野県庁舎
きゅうながのけんちょうしゃ
長野県長野市大字上ヶ屋字麓原2471−8
Tel 026-239-2211


 旧長野県庁舎は戸隠バードラインで長野カントリーを少し過ぎた戸隠側の飯綱高原に移築されています。カラマツ林の中に赤い屋根に白壁の木造2階の建物が長野県自治研修所として現役で使用されています。
 初代県庁舎は長野市西長野の信州大教育学部北側にありました。明治41年(1908)5月に火災で焼失し、旧長野県庁舎は2代目として、大正2年(1913)に現在県庁がある場所に建立されました。
 飯綱高原に移築されたのは昭和40年(1965)で、当初はホテル「明鳥閣」として使用されたそうです。その後昭和48年(1973)現在の研修所として生まれ変わっています。
 旧長野県庁舎は木造2階建て寄棟で、外壁は白漆喰で仕上げられた建物です。建物は左右対称で、中央に大きな御影石の車寄せを構えた威厳のある外観です。車寄せは角柱と円柱の三本柱が四隅を支え、上部には意匠が施されています。
 中央屋根には尖塔状の塔があり、ベランダに面する開口部の上部を半円形欄間としています。建物内部は正面に大きな階段があり、淡いステンドグラスに照らされて、美しい彫刻が浮かび上がります。大正ロマンあふれる建物です。



旧長野県師範学校教師館
きゅうながのけんしはんがっこうきょうしかん
長野県長野市上ヶ屋麓原2471−1123
Tel 026-233-5111 北野建設(株)本社総務部総務課


 旧長野県師範学校教師館は明治8年(1875)、本館・食堂とともに建てられた明治初期の洋風建築移入課程を物語る建物です。昭和46年(1971)に北野建設が譲り受け、飯綱高原の長野カントリー入口付近の現在地へ移築されました。
 昭和2年(1927)から昭和54年(1979)まで県立図書館があった長野市長門町竪石に建てられ、師範学校が明治16年(1883)に松本に移ってからは、上水内中学校や長野中学校などとして使用されました。昭和4年(1929)、県立図書館が建てられたため、本館は取り壊され、教師館のみが西北隅に移されました。
 教師館は木造2階建て、寄棟、桟瓦葺きで、外壁は白漆喰で仕上げられています。縦長の窓や玄関扉上部が半円形状、玄関ポーチ柱を円柱にするなど当時の洋風建築の要素を取り入れています。
 棟梁は東京筋違万世橋の尾野川清吉で、洋風小屋組を持つ2階建ての擬洋風に仕上げました。明治初期の師範学校で現在も残っている唯一の建造物で、長野県の県宝に指定されています。



旧ダニエル・ノルマン邸
きゅうだにえる・のるまんてい
長野県長野市上ヶ屋麓原2471−1123
Tel 026-233-5111 北野建設(株)本社総務部総務課


 旧ダニエル・ノルマン邸はカナダ生まれのカナダ・メソジスト派の宣教師ダニエル・ノルマンが暮らした、明治中期の洋風牧師館です。昭和46年(1971)に北野建設が譲り受け、飯綱高原の長野カントリー入口付近の現在地へ移築されました。
  ノルマン牧師は明治35年(1902)から昭和9年(1934)まで長野市に住んでいました。ノルマン邸は明治37年(1904)11月に県町に石堂町の内田繁蔵棟梁により建てられました。昭和46年(1971)長野県の県宝に指定されています。
 木造2階建てで、広さは1階140平方m、2階110平方mです。外部は横板張りで、1階は玄関・ホール・厨房(調理室)・食堂および2室、2階は4室からなり、装飾はほとんどなく、素朴で堅実な建物です。隣には旧長野県師範学校教師館が建てられています。


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