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信州長野の旅と歴史
信州・南信の旅        天竜峡・飯田

元善光寺
もとぜんこうじ
長野県飯田市座光寺2638
Tel 0265-23-2525 元善光寺事務所


 元善光寺は家内安全、交通安全、商売繁盛、合格祈願などのご利益で知られています。「一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣り」といわれ、両寺に訪れる参拝客で賑わっています。
 元善光寺は天台宗の名刹の一つです。推古天皇10年(602)に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光が難波の堀から一光三尊の御本尊を見つけ、祀ったのが、元善光寺の起元です。
 その後皇極天皇元年(642)に、その御本尊は現在の長野市へ遷座され、善光の名をとって「善光寺」と名づけられたのでした。
 飯田の善光寺は、勅命によって木彫で同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりました。仏勅によって「毎月半ば15日間は必ずこの麻績の古里に帰りきて衆生を化益せん」というご誓願を残されたのでした。
 長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ、片詣りといわれるのはこのためです。御利益も半分になってしまうそうです。ここは特に縁結びに御利益があるそうです。
 座光の臼・雪舟筆寒山拾得図・釈迦涅槃像などの寺宝約90点を宝物殿にて常時展示しています。座光の臼は善光が御本尊を難波より迎えてお祀りする時この臼の上に安置して供養しました。41年の長い間にこの臼から光明が輝いたといわれるものです。



旧座光寺麻績学校
きゅうざこうじおみがっこう
長野県飯田市座光寺2535
Tel 0265-23-4222 竹田人形館


 旧座光寺麻績学校は元善光寺の西にあります。麻績学校は明治6年(1871)に建てられました。学校建物としては県下で最も古いものものです。大屋根の棟には建設当時の校名である「麻績小校」と記されています。そして昭和59年(1984)までの111年間、学校として活用されていた貴重な建物です。
 この校舎の特徴は小学校校舎でありながら、1階が歌舞伎舞台として作られていることです。座光寺村では幕末期から若者による地芝居のための舞台建立の要望が高かったため、校舎を舞台兼用として建てたようです。
 校舎は木造2階建(一部3階)、入母屋造り、桟瓦葺きです。正面1階は歌舞伎舞台、2階は教室になっています。1階正面に長さ8間もの梁を渡し、その左右の太夫座・下座部分に2段の格子窓があります。
 県内の農村歌舞伎舞台の中では最大の大きさです。舞台裏は、1階が土間床、2階と3階は畳敷きの部屋になっています。洋風建築的要素が少ない伝統的な建築技術が見られ、昭和60年(1985)に長野県の県宝に指定されています。
 旧座光寺麻績学校の前に麻績の里「舞台桜」と呼ばれる桜があります。5弁から10弁の花が交じり合って咲くところから「半八重枝枝垂れ紅彼岸桜」ともいわれます。
麻績の里 舞台桜



開善寺
かいぜんじ
長野県飯田市大字上川路1000
Tel 0265-26-9026


 畳秀山開善寺は 臨済宗妙心寺派の南信随一の古刹で、本尊は聖観音菩薩です。山門を過ぎると鐘楼、本堂、庫裡が並び、庭園の美しさは有名です。ボタン、ハス、ドウダンツツジなど季節ごとに咲き、風情があります。境内には藤棚と牡丹園もあります。
 寺伝によると建武2年(1335)、小笠原貞宗が元の名僧清拙正澄(せいせつしょうちょう)(大鑑禅師)を京都建仁寺より招聘開山とし、創建されたとされています。暦応元年(1338)に諸山に列し、応永34年(1427)には十刹となり、寺運は隆盛しました。
 室町時代後半になると寺は衰え、明応8年(1499)には火災によって堂宇が焼失しました。松尾城の小笠原信貴によって、天文18年(1549)に復興され、慶長6年(1601)、寺領35石になるまでに至りました。この復興の頃、建仁寺派から現在の妙心寺派に改宗しています。
 開善寺の山門は瑠璃閣ともいわれ、室町時代の前期に建立されました。唐様の禅宗様式で、建造当時は、2階のある三間楼門であった形跡があります。現在は単層切妻造り、銅板葺きです。昭和29年(1954)、国の重要文化財に指定されています。
開善寺山門
 山門は中央通路部分は柱と小脇壁はありますが、扉を入れた形跡がなく、未完成のままの門であったようです。通肘木(とおりひじき)を用いたり、大瓶束(たいへいづか)の結綿(ゆいわた)の形式などから開善寺が中興された天文18年(1549)頃に再建されたと考えられています。
開善寺山門
 開善寺の鐘楼は国の重要美術品に認定されています。また伊那市東高遠の桂泉院には、文和4年(1355)に開善寺で鋳造された梵鐘があり、県宝になっています。総高134cm 口径77.5cm、鋳銅製で、織田軍が武田征伐の際、高遠まで運び陣鐘にしたといわれています。
開善寺鐘楼



文永寺
ぶんえいじ
長野県飯田市下久堅南原1142
Tel 0265-29-8146


 南原山文永寺は旧南原村の高台にある真言宗智山派のお寺です。文永元年(1264)、亀山天皇の勅願によって、神ノ峰城主の知久尼衛門五郎入道信貞が開基したのが始まりといわれています。
 信貞は京都醍醐寺理性院の隆毫阿闍梨上人を招いて開山させ、以来歴代天皇の勅願寺として栄えました。しかし天文23年(1554)、武田氏の兵火で神ノ峰城とともに主な堂宇は灰塵に帰しました。石室と五輪塔は難を逃れ、本堂などは江戸時代に再建されました。

 知久入道信貞の子である知久敦幸によって石室と五輪塔が造られました。文永寺の中ではなく、境内より手前の民家の道端に置かれています。花崗岩切石で組まれた石室の内部に同じ花崗岩の五輪塔が安置されていて、ともに国の重要文化財に指定されています。
石室と五輪塔
 石室は方1.58m、高さ1.88mの大きさで、この中に五輪塔が安置されています。石室の天井には、「弘安六年葵末十二月二十九日 神敦幸造 南都石工菅原行長 左衛門尉神敦幸生年六十二歳」と刻まれています。五輪塔は弘安6年(1283)知久敦幸が62歳の時に造立し、知久氏が神氏であったこと、奈良の石工菅原行長が造ったことがわかります。五輪塔は下方より地輪、水輪、火輪、風輪、空輪よりなり、総高1.16mで、各輪の四方に梵字が刻まれています。
石室と五輪塔
 長野県宝の文永寺の梵鐘は、総高1.415m、口径0.78mです。龍頭は中央に宝珠をもつ両頭式で笠形は大きくふくらみ、茸形の乳は乳の間4区に4段4列に64個配しています。弘安2年(1279)鋳造で重要文化財の小海町の松原諏訪神社の梵鐘と酷似しており、文永寺創建時のものと推測されています。
文永寺梵鐘
 文永寺の勅使門は開けずの門といわれ、形態、彫刻など県下唯一の貴重な唐門です。棟札には桃山時代に屋根を修理したと記されており、足利時代に造られたと推察されています。
文永寺勅使門
 文永寺の勅使の松は日本3大銘松の一つといわれています。樹齢約550年、幹高12m、下枝長14mです。朝臣広橋右大弁綱光卿が花園天皇の勅使として来参の際のお手植えの松ということです。
文永寺勅使の松
 阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。足利時代の有名な仏師・春日の作と伝えられています。総高2.45mの寄木造りの木像仏です。天井には梵字板が無数に貼られています。
文永寺阿弥陀堂



旧小笠原家書院
きゅうおがさわらけしょいん
長野県飯田市伊豆木3942
Tel 0265-27-4178 小笠原資料館


 旧小笠原家書院は伊豆木にあり、陣屋跡の石垣の上に建っています。裏山一帯は「お城山」と呼ばれ、土塁や空掘跡など、中世以来の土豪の居館構えの遺構が残されているところです。
 小笠原氏は室町時代に信濃の守護でした。松尾城主・小笠原信嶺(のぶみね)は武田氏の家臣でしたが、関ヶ原の合戦で徳川に味方して所領を安堵され、今の埼玉県にある本庄藩の藩祖にもなりました。松尾小笠原氏と呼ばれ、その後、越前勝山城主となり明治を迎えました。
 慶長5年(1600)、本庄にいた信嶺の弟・小笠原長臣は旧領の伊豆木へ千石で移封し、翌年に陣屋を築きました。伊豆木小笠原氏と呼ばれ、交代寄合として明治まで続きました。交代寄合とは旗本でありながら大名と同じように参勤交代をした高い地位を持つものでした。
 小笠原家書院は家系図では元和3年(1617)に建立とありますが、墨書銘から寛永期(1624-1644)に建てられたようです。江戸初期に遡る地方豪族の書院遺構は全国でも他に例がなく極めて貴重な建築物として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。
 本屋は桁行14.37m、梁間11.47m、1重入母屋造りです。東側に桁行3.43m、梁間3.73mの唐破風造りの玄関が取り付けられています。いずれも総こけら葺きで、本屋の南側約3分の1が崖上に突き出た舞台造りとなっています。
 玄関はもとは広間に設けられていましたが、明治初年、書院を除く広間、馬屋、居間、番所などが取り壊された時に、この位置に移築されたものです。玄関の中央蟇股に小笠原家の家紋の三階菱がついています。
 書院は平面田の字形の4室で3方に1間通りの入側をめぐらし、奥の火灯窓のある書院の間と次の間とは格天井で、その境に豪放な大菱欄間をつけ、次の間北側の3間の大床とともに豪華な桃山時代の建築を示しています。
 旧小笠原家書院に隣接している小笠原資料館は平成11年(1999)にオープンしました。小笠原家にまつわる資料を数多く展示しています。緩くカーブした細長い超近代的な建物です。設計は日本を代表する建築家ユニットSANAAでメンバーの妹島和世さんは小笠原家の後裔になるそうです。
小笠原資料館



天竜峡
てんりゅうきょう
長野県飯田市川路天竜峡
Tel 0265-27-2946 天竜峡観光案内所


 天竜奥三河国定公園にある天竜峡は、飯田市にある天竜川の峡谷で、国の名勝に指定されています。暴れ川といわれた天竜川が切り開いた絶壁が続く渓谷です。
 名勝天竜峡は、長野県の諏訪湖を源にする天竜川が幾千万年の浸食により、川の両岸に奇岩怪石が聳え立つ大自然の渓谷美を見せてくれる所です。
 JRの天竜峡駅のすぐそばにある姑射橋(こやきょう)から眺める景色はすばらしく、遊歩道からは「天龍峡十勝」を眺めることができます。
 弘化4年(1847)漢学者の阪谷朗盧が「天龍峡」と命名したといわれています。春の新緑と岩間ツツジ、山桜、夏の緑と白百合、秋のもみじ、冬の雪景色と四季の変化に富む名勝に相応しい景観が楽しめるそうです。
 姑射橋のたもとには天竜舟下りの発着場もあります。幽玄な景色を眺めながらの舟くだりは、船頭さんの歌や投網もあり人気があります。
 付近の天竜峡温泉は平成元年(1989)に掘り当てられた温泉です。長野県下一、全国でも有数の天然ラドン成分の含有量を誇り、天竜峡内の旅館に配湯されています。




矢筈公園
やはずこうえん
長野県下伊那郡喬木村氏乗
Tel 0265-33-3999 喬木村役場ふるさと振興室


 矢筈公園は矢筈ダムが造る湖と緑深い山々の中にあります。遊歩道やキャンプ場も整備され、四季を通じて村内外より多くの観光客が訪れます。
 木製の素朴な橋を歩いて渡ると、湖のほとりのキャンプ場に到着です。車が入れない、素朴なキャンプ場が好きという人にはオススメです。オートキャンプがしたいという人は橋の手前で可能です。
 矢筈公園は昭和45年(1970)に県立公園に指定されました。四季折々の緑と湖のコントラストが美しい、川遊びやキャンプに最適な公園です。
 毎年、矢筈公園において夏祭りが開かれます。マスのつかみ取りや、芸能大会、夜には矢筈ダム湖の水中花火など山間にとどろく大音響に歓声があがります。
 矢筈公園の遊歩道の先に加護うけの滝があります。全体の高さは約30mです。二段形状になっていて、夏でも肌寒さを感じさせます。古くは過ぎたる禍(わざわい)を除ける「禍護よけの滝」と呼ばれていたそうです。いつの頃からか「加護(神仏が力を加え守り助ける)うけの滝」と呼ばれるようになったそうです。



矢筈トンネル
やはずとんねる
長野県下伊那郡喬木村氏乗〜飯田市上村程野
 大きな高架橋が見えてきます。これが、三遠南信自動車道(国道474号線)の矢筈トンネルです。このトンネルが出来たおかげで、上村と飯田は本当に近くなりました。
 トンネルの入り口の壁画でも、遠山の神様たちが喜び踊っています。トンネルだと10分くらいで伊那山地を越えて行けます。   
 三遠南信自動車道は、静岡県の浜松と飯田市をわずか70分で結ぶ日本の南北交通網の機軸となるもの。これは村にとっても生活圏を広げ、人と人への交流を広げる活性化への大きな期待を担っています。
 伊那谷に通じる三遠南信矢筈トンネルが開通して数年たち、飯田への時間距離も大幅に短縮されました。ただ走ってみてほとんど通行量のない道路がこれほど立派なのは税金の使いすぎだとも思えました。



天神大渡橋
てんじんおおわたりはし
長野県飯田市上村(かみむら)
 遠山郷とは、長野県の最南端、旧南信濃村・旧上村・天龍村地方の総称で、三大秘境のひとつです。天神大渡橋付近は昇仙峡のように巨岩だらけです。 
 「霜月祭」と南アルプスの里というキャッチフレーズの遠山郷です。「アンバマイカ」とはこの遠山地方の方言で、「あそびましょう」という意味だそうです。
 
 いくつもの山を越えてたどりつく、南アルプスを間近に仰ぐ山里です。
 まさしく山峡と呼ぶにふさわしい土地。村々を中央構造線が貫いて、山の連なりが押し寄せる波のように幾重にも重なります。

霜月祭
 「霜月祭」は国の重要無形文化財になっています。民俗学的にも貴重な古い習俗を伝える祭で上村・中郷・程野・下栗の4集落で行われます。
 太陽の光が衰えゆく旧暦霜月のころ、諸国の神々を招き、生命の復興を願う祭。煮えたぎる湯をたたえた2つの釜を前に、全国各地の神が召喚されます。
 梵天帝釈から始まって伏見稲荷や津島天神、すべての地の神・水の神、この土地の神・おしゃぐり様まで、やおよろずの神々がこの山里に降り立つのです。祭は夜とともに深まり、面をつけた神々が登場する夜明けに最高潮を迎えるのです。


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