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信州長野の旅と歴史
信州・南信の旅    高遠

高遠城址
たかとうじょうし
長野県伊那市高遠町東高遠
Tel 0265-94-2257 公園管理事務所


 高遠はかつて伊那谷と甲州を結ぶ要衝の地として栄え、明治に至るまで伊那地方の政治、経済、教育、文化の中心でもありました。
 高遠城は戦国時代、武田信玄によって築城されましたが、織田信長との戦いで敗れた後、江戸時代には内藤氏の居城になりました。
 高遠城址のコヒガンザクラは全国まれに見る花見の名所として知られており、花は赤みが濃い特徴があります。
 信州高遠は7百年来の歴史を持つ山裾の古き城下町、内藤家3万3千石の所領として知られています。
 高遠コヒガン桜の花は小振りでピンク色が濃く、1500本の桜が満開に咲きそろう眺めは壮観で県の天然記念物に指定されています。
 高遠城は、治承3年(1179)平家の一族笠原平吾頼直が平清盛の命によって築いたといわれています。暦応年間(1338〜41)には木曽義親が高遠城主となり、高遠太郎と称したそうです。
 信濃に侵攻した武田晴信(信玄)は天文16年(1547)、南信濃経営と駿河・三河地方進出の拠点として、古くから伊奈谷の要所であった高遠に城を構えました。
 高遠(諏訪)頼継の後、弘治2年(1556)秋山信友が城主になりました。その後信玄の弟や子が城主となっています。天正10年(1582)武田信玄の五男の仁科五郎盛信と織田信忠の戦いがあり落城しました。
 徳川家康が伊那を支配した頃は、高遠城には保科正直が入城しました。徳川が関東に移ると、毛利秀頼の臣、岩崎左門が城代として入り、慶長6年(1601)保科正直の子正光が三万石をもって高遠城に入城しました。
 その後鳥居氏、内藤氏の居城となりました。大規模な改変もなく中世以来の縄張がそのまま近世まで引き継がれました。
 明治4年(1871)廃藩置県となり、翌5年高遠城の建物は民間に払い下げられました。取り壊れされましたが、本丸、二の丸、三の丸と遺構をよく残しています。
 明治8年(1875)高遠城址公園になりました。この頃旧藩士達が桜の馬場から桜を移植しました。そして城跡は、現在1,500本以上のコヒガンザクラが咲く信州の花見の名所として有名になりました。
 城址公園から車で3分ほどにある高遠郷土資料館には町内から出土した土器や高遠焼、高遠石工などの資料が展示されています。



高遠閣
たかとうかく
長野県伊那市高遠町東高遠2296
Tel 0265-94-2257


 高遠城址公園の北ゲートから入ると、すぐ左手に高遠閣の赤い屋根の大きな建物が現れます。観光客の休憩所でもあり、町内の集会所として利用されていて、近年にはバリアフリーなどの改修も施されています。
 高遠閣は昭和11年(1936)に建てられました。日本画家池上秀畝のほか、小松伝一郎、 広瀬省三郎、矢島一三の4氏によって建設され町に寄贈されたものです。
 木造2階建て、桁行14間、梁間9間の入母屋造り、鉄板葺きの建物です。玄関屋根とその上部の屋根が唐破風になっています。大正・昭和の稀有な建築として、平成14年(2002)に国登録有形文化財に指定されました。



進徳館
しんとくかん
長野県伊那市高遠町東高遠2007
Tel 0265-94-2557 伊那市教育委員会 高遠長谷教育振興課


 進徳館は万延元年(1860)、最後の藩主・内藤頼直によって、高遠城内に開設された学問所で、高遠城跡北隅にあります。財政難で新たな建物の建設ができなかったため、城内三の丸にあった家老の空屋敷を改造して利用しました。
 後に、昌平坂学問所の林大学頭学斎によって進徳館と命名されました。易経にある「君子は進徳脩(修)業、忠信(真心を尽くすこと)は徳の進む所以なり」という言葉からとったものです。
 藩士の子弟らはここで朱子学、和学、漢学、洋学、算法、柔術、兵学、弓術、馬術、槍術、砲術、西洋式教練などを教えられました。
 元治2年(1865)には孔子、孟子、顔子、曽子、思子の5聖像を館内に安置し、春秋釈尊の礼を行いました。明治4年(1871)の廃藩置県により廃校となりました。
 廃校までに通算500人の生徒が学びました。学者教育者では高橋白山、伊澤修二、後藤杉蔵、青山勝謙、内田文皐、長尾無墨、政治家では中村弥六など日本の近代化を担った多くの学者や政治家を輩出しました。現在も建物の一部が残り、国の史跡に指定されています。



信州高遠美術館
しんしゅうたかとうびじゅつかん
長野県伊那市高遠町東高遠400
Tel 0265-94-3666


 信州高遠美術館は高遠城址公園の南にある美術館で、平成4年(1992)にオープンしました。高遠町出身の画家・原田政雄氏が50年以上にわたり収集した総計668点におよぶ寄贈された「原田コレクション」がメインです。
 中村不折、池上秀畝、小坂芝田、江崎孝坪などの郷土作家の作品や、中村琢ニ、平山郁夫など伊那市ゆかりの画家の作品も常設展で展示しています。



伊那市立高遠町歴史博物館
いなしりつたかとうまちれきしはくぶつかん
長野県伊那市高遠町東高遠457
Tel 0265-94-4444


 高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館は高遠の歴史と暮らしに関する文化財を展示している博物館です。敷地内に、絵島が幽閉された建物が復元され、絵島囲み屋敷として公開されています。
 市有形文化財の土器、高遠藩主・内藤家の甲冑類、高遠藩士の家に生まれた伊澤修二の書、高遠出身の中村不折の作品などを展示しています。2階は、藩校の進徳館関係の資料を展示しています。桜シアターでは、満開の桜の映像を観賞できます。

絵島囲み屋敷
 絵島囲み屋敷は残存した原図により、ほぼ同じ位置に昭和42年(1967)に復元された建物です。8畳1間と湯殿などがあるだけの普通の家ですが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けらないように造られています。
 唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人がいました。板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断させています。手紙のやりとりも出来なかったそうです。
 絵島は家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕えていました。月光院の右腕になり、大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄の立場にありました。
 歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の張本人で、不義の罪で高遠に遠流されました。61歳で生涯を終えるまでの28年間、囲み屋敷に幽閉されました。



伊那市高遠町民俗資料館
いなしたかとおまちみんぞくしりょうかん
長野県伊那市高遠町東高遠2074
Tel 0265-94-4044


 伊那市高遠町民俗資料館は旧馬島家住宅・高遠なつかし館・旧池上家の3館からなる民俗資料館です。旧池上家住宅だけは共通券で入れますが、文化体育館近くの少し離れた場所にあります。高遠なつかし館にはいろりが再現されていて、実演や体験のできる養蚕具・機織を展示しています。

旧馬島家住宅
きゅうまじまけじゅうたく
長野県伊那市高遠町東高遠2074
 馬島家住宅は高遠なつかし館の奥にあり、天保年間(1830-1843)に建てられた上級武士の住宅です。馬島家は江戸時代に高遠藩の眼科の御殿医だった家柄で一般的な武家屋敷の間取りの他に調薬室(診察室)を設けるなどの特徴を持っています。
 馬島家住宅は木造平屋建て、本棟(ほんむね)造りです。藩医の住宅が、あまり改造されずに現存している例は全国的に見てもきわめて少なく、平成15年(2003)に長野県宝に指定されています。

旧池上家住宅
きゅういけがみけじゅうたく
長野県伊那市高遠町西高遠
 池上家は武田氏に仕え城の造営技術を持つ番匠池上清左衛門より分家した家柄です。文禄3年(1594)に瀬戸物、小間物を商っていました。酢、醤油などの醸造業を営み、豪商となりました。代々問屋や町名主といった役職を勤め、多くの古文書や記録などを所蔵しています。
 旧池上家住宅は江戸時代に建てられたもので、高遠城下の中では最古の商家建築とされます。建物は、桁行9間、梁間5間、木造2階建て、金属板葺きの切妻縦割型です。軒が比較的低く古い形式の町屋を踏襲し、飛騨高山の日下部邸に類似した和風構造になっています。
 現在は商家民俗資料館として古文書や記録など数百点を所蔵、展示しています。近世における典型的な商家で、伊那市の有形文化財に指定されています。



蓮華寺
れんげじ
長野県伊那市高遠町長藤的場105
Tel 0265-94-2400


 妙法山蓮華寺(れんげじ)は、高遠城址公園から北に1kmにある日蓮宗のお寺で、絵島の墓があることで知られています。創建は延文5年(1360)、藤原郷に妙実上人が開基となり阿闍梨日台上人が開山したと伝えられています。
 慶安4年(1651)、高遠藩主・鳥居忠春により現在地に移され、歴代鳥居氏に庇護されました。延宝8年(1680)、鳥居忠則が4代将軍徳川家綱の菩提を弔うため位牌堂を寄進しています。
 鳥居氏が改易後、位牌堂は元禄2年(1689)に七面大明神を勧請し七面堂となり昭和62年(1987)に伊那市指定有形文化財に指定されています。
蓮華寺七面堂

絵島の墓
 蓮華寺には、正徳4年(1714)におきた江島生島事件により高遠の地に配流となった絵島の墓があります。絵島は家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕えていました。月光院の右腕になり、大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄まで上り詰めました。 
蓮華寺・絵島の像
 歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件を起こし、不義の罪で高遠に遠流されました。寛保元年(1741)61歳で生涯を終えるまでの28年間、囲み屋敷に幽閉され、蓮華寺に葬られました。
蓮華寺・絵島の墓



満光寺
まんこうじ
長野県伊那市高遠町西高遠975
Tel 0265-94-2288


 満光寺は京都知恩院の直末寺として、天正元年(1573)浄土宗の高僧だった笈往(ぎゅうおう)上人が開山したと伝えられています。本尊は鎌倉時代の仏師快慶作といわれる阿弥陀如来像です。伊那に流された工藤祐経の子・犬房丸が守本尊として持っていた仏像だといわれています。
 元禄時代に入ると満光寺は高遠藩主となった内藤家の菩提寺となり寺運が隆盛しました。元文4年(1739)に再建された本堂は「十二間四面で、鐘楼門、その他仏具まで結構を尽くし、伊那一番の伽藍なり」と遠野藩老の葛上紀流が記したそうです。
 科の木(しなのき)を用い、長野の善光寺の伽藍配置にしたことから「伊那善光寺」「信濃の科寺」などとも呼ばれ、多数の末寺を有した大寺だったそうです。しかし、明治32年(1899)の火災により本堂はじめ多くの堂宇や寺宝、記録などが焼失してしまいました。
 本堂正面にある鐘楼門は火災を逃れた建物で延享元年(1745)に建てられました。間口4間、奥行2間半、銅板葺きの入母屋造りで、科の木を用いています。2層が鐘付堂となる楼門形式で、棟梁・菅沼定次によって造られました。昭和36年(1961)、伊那市の有形文化財に指定されています。
満光寺鐘楼門
 境内にはひとめ見るだけで極楽往生できるといわれる「極楽の松」があります。武田信玄の弟の信廉(のぶかど)が高遠城主の時、笈往上人と親交があり、高遠城内の黒松をこの地に自ら移植したそうです。
満光寺・極楽の松
 満光寺には内藤家歴代藩主の墓が建ち並んでいます。また保科左源太の墓もあります。左源太は高遠城主保科正光の養子で保科家を継ぐ予定でしたが、2代将軍秀忠の子・幸松丸(後の保科正之)が養子になって後継者となったため、悲運の人生を送りました。
満光寺・内藤家歴代の墓



建福寺
けんぷくじ
長野県伊那市高遠町西高遠1824
Tel 0265-94-2336


 大宝山(だいほうざん)建福寺は安元2年(1176)文覚上人が本堂裏手にある「独鈷の池」付近に開創したのが始まりと伝えられています。その後、鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師が入って鉾持山(ほこじさん)乾福興国禅寺(けんぷくこうこくぜんじ)を建立しました。
 天正7年(1579)、駿河国の清見寺の住持だった東谷(とうこく)禅師を招いて中興開山し妙心寺派となりました。保科氏の時代に大宝山建福寺と改号しています。
 歴代高遠城主からの信仰が厚く、武田氏、織田氏、保科氏から庇護され、与えられた古文書を多く所蔵しています。特に保科氏からは文禄年間(1592-1596)に黒印3通を受け、保科氏の菩提寺となりました。
 石仏の寺としても有名で、境内には守屋貞治(もりやさだじ)、渋谷藤兵衛を中心とした高遠石工の作品が多数あります。小藩の高遠藩は財政的に苦しかったため、農民に対して、石工の旅稼ぎをすすめていました。そのため、全国各地へ広がり、高遠石工の名声を高めたそうです。
建福寺の石仏
 境内には甲斐国武田氏の家臣で保科正光の父親の保科正直の墓(中央)、初代藩主保科正光の墓(左側)、武田信玄の側室で武田勝頼の母親である諏訪御料人(由布姫)の墓(右側)があります。「諏訪御料人」は勝頼が高遠城主となった時、高遠に移りこの地で逝去、この寺に葬られました。
保科、諏訪御料人の墓



鉾持神社
ほこじじんじゃ
長野県伊那市高遠町西高遠1600
Tel 0265-73-3582


 鉾持神社は鬱蒼とした木に囲まれた一直線の長い長い石段の先に鎮座しています。社殿は赤く塗られた瑞垣に囲?われ、長野県内では珍しい権現造りです。
 養老5年(721)、領主の小治田宅持が伊豆神社の天津彦火瓊瓊杵尊、箱根神社の天津彦火火出見尊、三島神社の大山祗命の3神を城館の子丑の山に奉祀勧請したのが神社の始まりと伝えられています。
 文治元年(1185)に現在地に遷座した時、土の中から鉾(ほこ)が出てきたことから鉾持神社と改称し、鉾を御神体としています。鉾持神社は高遠城の守護神となり、領主や藩主の信仰が最も厚い第一の総社となりました。
 平成20年(2008)に公開された映画「ひぐらしのなく?頃に」では古手神社という名前の神社になりロケ地になりました。地元のエキストラが多数出演し、「綿流し祭」のシーンが撮影されそうです。



遠照寺
おんしょうじ
長野県伊那市高遠山室2010
Tel 0265-94-3799


 高遠城址公園から車で30分ほど北東にある妙朝山遠照寺(おんしょうじ)は、日蓮宗のお寺で、牡丹の寺として知られています。また高遠に遠流された大奥の絵島の分骨墓があります。
 遠照寺は弘仁11年(821)に最澄がここに薬師堂を建てたのがはじまりとされていて、最初は天台宗の寺だったそうです。その後火災により荒廃し、文明5年(1473)、日朝上人により再興されそうです。

 本堂の奥に天文7年(1538)に建てられた国指定重要文化財・釈迦堂があります。方3間、単層入母屋造り、銅板葺きで上田市東内の虚空蔵堂と同じ様な構造をしています。中には来迎柱を建てられ、その前面に長野県唯一の建築式多宝小搭が安置されています。
遠照寺釈迦堂
 この多宝小搭も国の重要文化財に指定された2層塔婆です。文亀2年(1502)に地元の池上左ヱ門大夫正清氏により作られたもので室町時代の作風を残しています。
遠照寺釈迦堂
 境内には大奥の大年寄となった絵島の分骨した墓があります。絵島は正徳4年(1714)に江島生島事件を起こし高遠に流罪となりました。寛保元年(1741)61歳で没するまで28年間幽閉され、遺言により遠照寺に歯骨と髪毛が納められたそうです。
遠照寺絵島の分骨墓



熱田神社
あつたじんじゃ
長野県伊那市長谷溝口宮之久保1993−1
Tel 0265-98-2009 伊那市長谷教育振興課


 日本武尊命(やまとたけるのみこと)が東夷東征の帰りに甲斐の酒折の宮からこの地に出て、桑の木の下に行宮(あんぐう)を建て、住民の安寧を祈ったそうです。その後、日本武尊を偲んだ住民が尾張国の熱田神宮の分霊を勧請し祀ったのが熱田神社です。
 鳥居をくぐると、右手に手水舎、左手奥には舞宮、そして拝殿の両側に蚕魂神社とおかみ神社の2つの境内社が建っています。本殿は拝殿の後ろにある覆屋の中にあります。

 舞宮は以前拝殿前にあったものを昭和11年(1936)に移築したものです。神前に踊りや芝居などの芸能を奉納する際に使用されました。ここは民衆の文化的な創造活動の舞台でもありました。平成元年(1989)に伊那市の有形文化財に指定されています。
熱田神社舞宮
 熱田神社本殿は宝暦12年(1762)に氏子の浄財で建てられました。桁行3間、梁間3間、入母屋造り、こけら葺きで両側面に軒唐破風が付いています。 棟梁は地元の池上(高見)善八、彫刻は関口文治郎が担当したそうです。
熱田神社本殿
 土台や長押、頭貫、脇障子などのたくさんの部材に素晴らしい彫刻が施されています。木鼻の麒麟や肘木の唐獅子・象・龍、隅木の獏など多くの彫刻が施してあることから伊那の日光東照宮と呼ばれたそうです。茅葺の覆屋とともに国の重要文化財に指定されています。
熱田神社本殿



杖突峠
 高遠への国道152号線は別名"杖突街道"とも呼ばれています。
 藤沢川沿いに走る国道はかつては高遠から諏訪へ抜け、甲州街道や中山道へと通じる重要な道でした。


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