直線上に配置
信州長野の旅と歴史
信州・中信の旅    諏訪

諏訪湖
すわこ
長野県諏訪市・下諏訪町・岡谷市
Tel 0266-52-2111 諏訪市観光協会


 諏訪湖は、海抜759m、周囲約16km、面積13。3平方km、水深約7mの長野県のほぼ中央に位置する同県最大の湖で、天竜川の源でもあります。わかさぎなどの淡水魚が豊富であり、武田信玄の石棺伝説など幾多のロマンを秘めています。
 諏訪湖では鯉(こい)や鮒(ふな)、公魚(わかさぎ)などの釣りも楽しめます。
 明治期にはここでスケートが発達。日本のスケート競技発祥の地となっています。
 冬の厳寒期には、氷がせり上がって長い亀裂の帯をつくる「御神渡(おみわたり)」という現象も生まれます。
  これは諏訪大社上社と下社の神様が出会うために渡ることだとされ、大切な神事のひとつにもなっています。
 諏訪湖は、宮川、砥川、横河川、上川など多くの川が流入しているのを見てもわかるように、かなり広い地域の雨水が集まります。

釜口水門
 天竜川は、諏訪湖からの流出口である釜口を始点として、太平洋まで流れていきます。この天竜川の始点となっているのが、釜口水門です。
 水の流出口は、釜口のみであり、ひとたび大雨が降れば、たいへん氾濫の起こりやすい構造になっています。このため古くから洪水対策に悩まされていたようです。
 諏訪湖の水があふれてしまうのを防ぐには、早く天竜川に流してしまうのが良策だと考えられてきました。このため、天竜川への流出口(釜口)を切り広げる工事が、江戸時代から行われてきました。



諏訪大社上社本宮
すわたいしゃかみしゃほんみや
長野県諏訪市中洲宮山1
Tel 0266-52-1919


 諏訪大社は、お諏訪様と呼ばれ、全国に1万余の御分社を持つ諏訪神社の総本社です。諏訪湖南北に2社4宮(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、春宮)が鎮座し、日本最古の神社の一つといわれています。本殿をもたない諏訪造りと呼ばれる建築様式で建てられています。
 上社は男神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)を、下社はその妻の女神・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を主祭神としています。建御名方神は大国主命の第2子で古事記の大国主神の国譲りで、建御雷と力競べをした国神です。
 主に上社が狩猟神的で、下社が農耕神的だといわれています。建御名方神は農耕や勝負、家内安全、弥栄の神として崇められています。中世以降、東国第一の軍神として崇拝され、名将たちが全国各地に分霊を持ち帰ったとされています。
 孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)に朝廷より勅使が派遣されています。承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、天慶3年(940)に正一位を賜り、延喜式神名帳には名神大社と書かれ信濃国一之宮となりました。
 神官職にあった諏訪氏は戦国時代には諏訪周辺を支配する大名になりました。武田領となると信玄、勝頼父子から崇敬されました。天正10年(1582)、織田信忠が5万の兵でと武田勝頼を攻めました。高遠城攻防で兵火は諏訪まで及び多くの社殿、社宝が灰塵に帰しました。
 徳川幕府も庇護し、高島藩主・諏訪頼水などに崇敬されました。頼水の父・頼忠は諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たります。明治初頭の神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が除かれ、現在に至っています。
 上社本宮の社殿は天保2年から9年にかけて再建された建物が多く、立川和四郎二代目富昌が棟梁として手掛けています。四脚門、幣殿、拝殿、左片拝殿、右片拝殿、脇片拝殿、神楽殿が国の重要文化財に指定されています。
 また、宝殿、布橋、勅使殿、五間廊、本宮入口御門は諏訪市の有形文化財に指定されています。「信玄十一軸」や、亨禄4年(1531)武田信虎と諏訪頼満が境川で和睦するにあたり、神長守矢頼真が間に立ってかき鳴らした御宝鈴などの神宝があります。社叢は県の天然記念物に指定されています。

 諏訪大社上社本宮の四脚門は布橋の途中から斉庭(ゆにわ)に入る所にあります。慶長19年(1614)徳川家康の寄進によって造られたといわれています。切妻造り、銅板葺きの四脚門は棟門にあたる本柱の前後に2本ずつ控柱(側柱・袖柱)をつけた形式の門で、八脚門とともに古くから造られていました。国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社四脚門
 国の重要文化財に指定されている神楽殿は下檀にあります。神楽奏上の他に、拝殿の意味をもっていたようです。文政10年(1827)上桑原村の伊藤伝蔵(大隅流)によって上棟されました。桁行4間、梁間3間、入母屋造り、銅板葺きで、妻を正面とし、3方に切目縁をまわし、擬宝珠高欄をつけています。
諏訪大社上社神楽殿
 諏訪大社には本殿はありません。上社本宮の幣拝殿は、両翼に左右片拝殿がつくという特殊な諏訪造りで建てられています。桁行1間、梁間1間、1重、向唐破風造り、銅板葺きで正面の龍の彫り物や賽銭箱近くの波の彫り物が美しく、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社幣拝殿
 諏訪大社上社本宮の左片拝殿は拝殿に向かって右側にあります。桁行2間・梁間1間の建物で、天保6年(1835)に再建されました。立川和四郎2代目富昌が地元の宮大工とともに完成させました。立川流の代表的建築物ともいわれ、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社左片拝殿
 諏訪大社上社本宮の右片拝殿は拝殿に向かって左側にあります。左片拝殿と同じく桁行2間・梁間1間の建物で、天保6年(1835)に再建されました。幣殿、拝殿、左片拝殿、脇片拝殿とともに立川和四郎2代目富昌が手掛け、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社右片拝殿
 元禄3年(1690)に再建された勅願殿は拝所の右手に建てられています。弊拝殿が祭典や神事を行う場所であるのに対して、勅願殿は私事の祈祷を行う場所です。切妻造り 銅板葺きで御神体の守屋山に向かって建てられています。
諏訪大社上社勅願殿
 諏訪市指定有形文化財の諏訪大社上社本宮の布橋は文化9年(1812)に再建されました。桁行37間、梁間1間、切妻造り、銅板葺きです。布橋は川を越えるものではなく、屋根付の回廊で、拝所の横まで続いています。
諏訪大社上社布橋
 明治以前は一般の人は布橋を通ることはできませんでした。上社の最高位の祀官であった大祝(おおほうり)のみが通行を許されました。そのときに布を敷いたことから布橋の名がついています。現在でも御柱祭のときに神輿が白い布を敷いた上を通ることになっています。
諏訪大社上社布橋
 諏訪市指定有形文化財の勅使殿は、方1間、大唐破風、妻入の銅板葺きです。直線的な切妻屋根を持つ前方の建物に、破風の付いた反りのある切妻造の建物が付いています。正面の扉口以外は格子窓で、周囲に刎高欄つきの縁がまわっています。
諏訪大社上社勅使殿

 諏訪大社では、天下の奇祭と呼ばれている「御柱祭」があります。7年目毎の寅と申の年に盛大に行われる諏訪大社氏子のお祭りです。直径約1m、長さ約17m、重さ約12tにもなるもみの巨木を、諏訪大社氏子が総出で山から切り出し、里へ曳き、最後には上社・下社の各社殿を囲むよう、四隅に建てられます。
諏訪大社上社御柱祭
 御柱祭は、桓武天皇の御代から始まったといわれています。巨木を山から里へと曳く「山出し」は4月に、里から各社殿へと曳き建てる「里曳き」は5月に行われます。この勇壮な木落とし川越しの難事を経て、独特の木遣唄(きやりうた)を歌いながら奉仕されるのです。
諏訪大社上社御柱祭



高島城
たかしまじょう
長野県諏訪市高島1ー20
Tel 0266-53-1173


 高島城は天正18年(1590)、諏訪に転封された豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592)、着工、慶長3年(1598)、に完成しました。
 この城は、諏訪湖と数条の川により周囲の濠の役割をしていて、諏訪湖の波が城壁にせまり、水中から城郭のみが浮き出したように見えたために、「諏訪の浮城」ともいわれたそうです。
 それより前の諏訪は諏訪氏が諏訪湖周辺を治めていました。武田・織田の相つぐ侵攻を受けた後、天正18年(1590)豊臣秀吉によって徳川家康が関東へ移封された時、諏訪頼忠は行動をともにして武蔵国比企郡奈良梨へ移り、日根野氏が入封しました。
 関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)、日根野氏の関東への転封と入れ替りに、高島城には再び諏訪氏が帰城し、初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る江戸時代270年の間、諏訪氏の居城となりました。
 明治4年(1871)7月、廃藩置県によって高島城は高島県庁舎となりました。天守閣は明治8年(1875)に取り壊され、二の丸、三の丸その他は住宅地になりました。明治9年(1876)5月、高島城址は「高島公園」になり一般に開放されました。
 昭和45年(1970)、天守閣は復興され1階は郷土資料室、2階は高島城資料室、3階は諏訪の平を一望できる展望室になりました。城内は桜や藤の名所としても名高い公園になっています。



片倉館
かたくらかん
長野県諏訪市湖岸通り4ー1ー9
Tel 0266-52-0604


 片倉館は昭和3年(1928)、シルクエンペラーと呼ばれた片倉財閥の2代目社長が  地域住民に厚生と社交の場を提供するため造られた施設です。 片倉家は諏訪湖のほとりで明治の初めに製糸業を起こし、シルク・エンペラーとして、世界に知られる一大コンツェルンを築きました。創業50周年の記念事業としてこの片倉館を建設しました。
 片倉家2代目の当主片倉兼太郎は欧米視察で地域に対する企業の社会貢献を学びました。特に健康福祉施設の充実に関心があり諏訪にもそのような施設をと、大浴場や休憩室、大広間などを造りました。
 庭園には一面に白砂を敷き、池の傍らには小動物も飼われました。建築デザインも当時の日本の最先端をいくものだったのです。
 片倉館で有名なものといえば男女別に作られた「千人風呂」の温泉です。とても大きくとても深い風呂で、下には、黒い丸い石がたくさん敷き詰められているのです。
 浴室内も洋風にできていて、総タイル張りで窓の上部にはステンドグラスがあり、四隅には彫刻の人物像が飾られています。平成23年(2011)、浴場、会館、渡廊下の3棟が国の重要文化財に指定されました。



諏訪市美術館
すわしびじゅつかん
長野県諏訪市湖岸通り4ー1ー14
Tel 0266-52-1217


 諏訪市美術館は信州最古の美術館で、白壁に緑の瓦が映えるレトロな建物です。片倉家が昭和18年(1943)に建てた懐古館を諏訪市に寄付し、昭和31年(1956)、美術館として発足しました。
 郷土作家はもとより、全国的にも著名な作家の作品約1000点を日本画・洋画・版画・彫刻・工芸・書など、芸術全般にわたって収蔵、展示しています。



北澤美術館
きたざわびじゅつかん
長野県諏訪市湖岸通り1ー13ー28
Tel 0266-58-6000


 北澤美術館は、アール・ヌーボーガラスコレクションと近代日本画を展示する諏訪地域を代表する美術館です。エミール・ガレ(1846-1904)の作品を主とする、アール・ヌーヴォー期のガラス工芸40点と現代日本画30点を常時展示しています。
 切妻の三角屋根にクリーム色のタイル外壁が山荘風の雰囲気を感じさせる建物です。展示室は1階と2階に分かれています。エントランスホールに面したブロンズの扉を押し開けると、オレンジ色の光を放つエミール・ガレの代表作「ひとよ茸ランプ」があります。照明を落とした暗がりの中に、作品だけがスポットライトの光に浮かび上がる展示手法をとっています。
 2階へ上がると明るく開放的な空間に現代日本画が並べられています。東山魁夷の代表作「白夜」・「曙」のほか、東山寧、高山辰雄、小倉遊亀、上村松篁、加山又造などの作品200点が収蔵、展示されています。



北澤美術館新館(SUWAガラスの里)
きたざわびじゅつかんしんかん(すわがらすのさと)
長野県諏訪市大字豊田2400ー7
Tel 0266-57-2100


 北澤美術館新館(SUWAガラスの里)は平成15年(2003)4月1日 「ルネ・ラリック美術館」から新たにオープンしました。世界最大級のアール・ヌーヴォー、アール・デコ・ガラス工芸公開コレクションが誕生したのです。
 ガラスアートの代表的な作家であるガレ、ドーム、ラリックの3大コレクションから、選び抜かれた作品が彩る美術館です。アール・ヌーヴォーの世界的ガラス・コレクションとして定評ある「北澤コレクション」に、アール・デコ期(20世紀初頭〜中期)を代表する「ルネ・ラリック」のガラス作品450余点が展示されています。



サンリツ服部美術館
さんりつはっとりびじゅつかん
長野県諏訪市湖岸通り2ー1ー1
Tel 0266-57-3311


 財団法人サンリツ美術館は、平成7年(1995)、諏訪湖畔にオープンしました。諏訪市のサンリツ企画(株)が所有する美術品と、元セイコーエプソン社長、故服部一郎氏が妻と娘に残した美術品の茶道具、古書画や西洋近代絵画等、約600点の作品を収蔵しています。
 展示品は日本・東洋の古代から近代に至る絵画・書蹟・工芸に、西洋近代絵画が加わっています。重要文化財の「大中臣能宣像」などの大和絵、俵屋宗達など琳派の秀作、中国宋元時代の水墨画、伝藤原行成筆「大字和漢朗詠集切」など素晴らしいものばかりです。
 他にも茶道具を中心とする国宝級の工芸品、兀庵晋寧、大燈国師の墨蹟、本阿弥光悦が娘に与えたと伝えられる「白楽茶碗」、古九谷大絵皿など。ルノワール、シャガール、デュフィ、ルオーなど西洋の有名絵画まであります。



諏訪市原田泰治美術館
すわしはらだたいじびじゅつかん
長野県諏訪市渋崎1792ー375
Tel 0266-54-1881


 諏訪市原田泰治美術館は、原田泰治氏の作品を展示する美術館です。原田氏は諏訪市出身の著名なグラフィックデザイナーであり画家です。平成10年(1998)7月、北アルプスの峰々を望む諏訪湖のほとりに開館しました。
 美術館は体の不自由な人にも親切な配置になっています。駐車場から入り口へはなだらかなスロープにしてあり、館内にエレベーターが設置されています。
 そして作品は車椅子の方のために少し低めに掛かっていて点字の表示もしてあります。
 名誉館長は原田さんの親友であるさだまさしさんだそうです。



蓼の海公園
たてのうみこうえん
長野県諏訪市大字上諏訪字角間沢西
Tel 0266-52-4141諏訪市役所


 蓼の海は諏訪市の北方山間にある人造湖です。最大深度7m、水面海抜高度1250m。水田灌漑用の溜め池として建設され、スケートリンクとしても使われた湖です。諏訪湖を見下ろす静かな高原で、湖のほとりから遊歩道がつづきます。大見山頂上の展望台からは諏訪盆地の向こうに富士山が見えます。
 地元の人しか知らない穴場、「蓼の海公園」には、休憩所、森林体験学習館、遊歩道、などが整備されています。蓼科の山々に囲まれた静かな湖でルアーとフライを楽しむこともできます。
 平成16年(2004)に公開された映画「いま、会いにゆきます」(竹内結子・中村獅童主演)の中で、息子、佑司が走っていく感動的なシーンはここ蓼の海で撮影されました。



下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館
しもすわちょうりつすわこはくぶつかん・あかひこきねんかん
長野県諏訪郡下諏訪町西高木10616ー111
Tel 0266-27-1627


 下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館は舟をイメージした建物です。湖水に浮かぶように滑らかな曲面を見せています。常設展示は、諏訪湖独特の漁法や湖と暮らしの文化。そして、島木赤彦関係の貴重な資料が展示されています。
 諏訪湖のまるた舟は丸太材を二つ割りにして内側をくりぬき舷(ほて)とし、板材で底板を張った構造舟です。一人で漁をするのに操作しやすく、波負けしないそうです。長野県の民俗文化財に指定されています。

 下諏訪町は下駄スケート発祥の地、下駄スケートを生み出したところなのです。敷地内に「下駄スケート発祥の地」の碑があります。諏訪湖展示室には、たくさんの下駄スケートが展示されています。
下駄スケート発祥の地

 島木赤彦は明治9年(1876)、諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)に生まれました。短歌、俳句、新体詩を作り、27歳のとき歌誌「氷むろ」を創刊し、のち上京して「アララギ」の編集にあたりながら第1線の歌人となりました。大正15年(1926)に没しています。
赤彦記念館
 敷地内に島木赤彦歌碑があります。

 信濃路はいつ春にならむ夕づく日
  入りてしまらく黄なる空のいろ

 大正15年(1926)2月、病が重かった島木赤彦の口述を不二子夫人が代筆したといわれています。長い冬に耐えて春を待つ人々の思いを見事に表現しています。
島木赤彦歌碑



諏訪大社下社秋宮
すわたいしゃしもしゃあきみや
長野県諏訪郡下諏訪町5828
Tel 0266-27-8035


  諏訪大社は、お諏訪様と呼ばれ、全国に1万余の御分社を持つ諏訪神社の総本社です。諏訪湖南北に2社4宮(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、春宮)が鎮座し、日本最古の神社の一つといわれています。本殿をもたない諏訪造りと呼ばれる建築様式で建てられています。
 上社は男神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)を、下社はその妻の女神・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を主祭神としています。孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)に朝廷より勅使が派遣されています。承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、天慶3年(940)に正一位を賜り、延喜式神名帳には名神大社と書かれ信濃国一之宮となりました。
 諏訪大社では木や石などに降りる精霊として、ミシャクジ神を祀っていました。奉祀する神職の最高位を大祝と呼び、上社の大祝「諏訪氏」は祭神の子孫として、下社の大祝「金刺氏」は皇族の子孫としていました。 平安時代後期、諏訪・金刺の両氏が武力を持って大きな勢力となりました。祀られていた神もミシャクジから、上社は建御名方命、下社は八坂刀売命になりました。
 その後、金刺氏は戦国時代に入り滅亡し、上社の諏訪頼重は武田氏に滅ばされます。天正10年(1582)、織田信忠が5万の兵でと武田勝頼を攻めました。高遠城攻防で兵火は諏訪まで及び多くの社殿、社宝が灰塵に帰しました。
 徳川幕府から庇護され、下社には500石の神領が安堵されました。高島藩主・諏訪頼水などにも崇敬されました。頼水の父・頼忠は諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たります。明治初頭の神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が除かれ、現在に至っています。  
 諏訪湖周辺にある4つの諏訪大社のなかで、もっともにぎわいをみせるのが、諏訪大社下社秋宮です。旧中山道と甲州街道の分岐点にあり、下諏訪宿が開かれると多くの信者、旅人が参拝に訪れ社運も隆盛し、温泉が湧き出たことで湯治客も多く集まりました。
 下社は春宮と秋宮の2社に分かれています。下社の祭神である八坂刀売命は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭りで秋宮に遷座し、翌2月1日に春宮に帰座されるといわれています。つまり夏は春宮に、冬は秋宮に住まわれるのです。
 諏訪大社下社秋宮には本殿がありません。ご神体は拝殿・御宝殿の奥のご神木「一位の木」です。拝殿中央に「御神鏡」が祀られています。ここには、日本一大きい青銅製の狛犬や注連縄があります。また宝物殿には国の重要文化財の売神祝印ほか多くの貴重な宝物資料があります。
 拝殿に向かって右側、一の御柱の奥のお社は、手前が稲荷社、真ん中がお諏訪さまの御子神を祀る若宮社、奥が皇大神宮社です。左側二の御柱近くにあるお社は、右から八坂社、加茂上下社、子安社及び鹿島社です。
 秋宮の社殿は諏訪出身の宮大工立川和四郎初代富棟が手掛け、安永10年(1781)に完成しました。幣拝殿、左片拝殿、右片拝殿、神楽殿が国の重要文化財に指定されています。

 神楽殿は天保6年(1835)に立川流2代目の富昌の手によって建てられた社殿です。前面に提げられている注連縄は、重さが1トンもあるそうです。桁行5間、梁間3間、1重、三方切妻造り、妻入、銅板葺きです。
諏訪大社下社秋宮神楽殿
 前方が妻入りの切妻で、後方が平入りの切妻のため、 棟全体がT字型の撞木造りで、三方切妻造りと呼ばれています。全体が素木で、彫刻や彩色などが使われていません。質素で比較的簡素な造りとなっています。神楽殿は国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社秋宮神楽殿
 諏訪大社下社秋宮の幣拝殿は神楽殿の奥にあり、安永10年(1781)に初代・立川和四郎富棟により完成されました。桁行1間、梁間2間、楼造り、切妻造り、正面軒唐破風付、銅板葺きです。左右の建物は片拝殿で、奥にはお宝殿があります。
諏訪大社下社秋宮幣拝殿
 幣拝殿は、諏訪大社独特な門と拝殿を兼ねた形式になっています。上社本宮の幣拝殿と比べると、上社では拝殿の後方に別構造の門が建つのに対し、下社秋宮・春宮では、総2階建になっています。全体が欅の素木造で、彫刻が数多く施されています。幣拝殿は、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社秋宮幣拝殿
 諏訪大社下社秋宮の右片拝殿は幣拝殿の向かって左脇に建てられています。桁行5間、梁間2間、1重、切妻造り、銅板葺きです。彫刻を全く使わない簡素な廊形式で、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社秋宮右片拝殿
 諏訪大社下社秋宮の左片拝殿幣は幣拝殿の向かって右脇に建てられています。桁行5間、梁間2間、1重、切妻造り、銅板葺きです。彫刻を全く使わない簡素な廊形式で、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社秋宮左片拝殿
 子安社はお諏訪さまの御母神である高志沼河比売命(こしのぬなかわひめ)をお祀りしており、昔からお産の守り神と親しまれています。底の抜けた柄杓は、水がつかえず軽く出るように、お産も楽にすむようにと、安産を願い、また安産のお礼に奉納されたものです。
諏訪大社下社秋宮子安社
 諏訪大社下社秋宮の鳥居をくぐると正面に根入りの杉といわれる杉がそびえています。高さ約35mの大木で、大社の御神木の一つで樹齢は約800年といわれています。この杉の巨木は夜になるとイビキが聞こえるといわれています。また、この杉の木の落葉を煎じて子供に飲ませると、子供の夜泣きが止まる、皮を使った御守りを持たせると、夜泣きする子供がよく眠れるようになるなど、様々な伝承があり、下社7不思議の1つに数えられています。
根入りの杉
 昔から国家に変事がある時は唸りを発するともいわれています。この巨樹は夜には特に枝を下げ、布団を掛けて静かに寝ている様にも見えるので「寝入りの杉」だとか、杉の挿木に根が生えたものなので「根入りの杉」などと呼ばれているそうです。
根入りの杉



諏訪大社下社春宮
すわたいしゃしもしゃはるみや
長野県諏訪郡下諏訪町大門193
Tel 0266-27-8316


 諏訪大社は全国に1万余の御分社を持つ諏訪神社の総本社です。諏訪湖南北に2社4宮(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、春宮)が鎮座し、日本最古の神社の一つといわれています。
 上社は男神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)を、下社はその妻の女神・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を主祭神としています。天慶3年(940)に正一位を賜り、延喜式神名帳には名神大社と書かれ信濃国一之宮となりました。
 室町時代に上社と下社の間に騒乱があり、多くの社殿、社宝など焼失し、天正10年(1582)、織田が武田を攻めた高遠城攻防で兵火は諏訪まで及び多くの社殿、社宝が灰塵に帰しました。 江戸時代に入ると幕府が庇護し下社には500石の神領が安堵され、社殿も随時再建されました。
 7年毎、寅と申の年に樅を山中から切り出し、神木を建てる諏訪大社式年造営御柱大祭があります。この御柱祭(おんばしら)は巨木を人力のみで曳き、各お宮の四隅に建てるという勇壮なもので、毎回20万人以上が訪れます。
 諏訪大社下社春宮の社殿は秋宮と、1キロほど離れています。春宮と秋宮の間では、毎年2月1日と8月1日に遷座祭が行われています。神様は2月から7月までは春宮に来られるのです。

 大門通りからまっすぐ伸びる参道(車道)の途中に太鼓橋の下馬橋があります。室町時代の建立で、元文元年(1736)改修され、下社では最も古い建物です。下乗下馬といわれこれより中は殿様でも籠や馬から降りなければならない場所でした。
諏訪大社下社春宮下馬橋
 下馬橋は桁行5間、梁間1間、切妻造り、妻入、銅板葺きです。現在この橋を通ることができるのは1年に2度の神行行事の神様がお乗りなった神輿だけとなっています。下馬橋は下諏訪町の文化財に指定されています。
諏訪大社下社春宮下馬橋

 秋宮より小ぶりの神楽殿の奥に、幣拝殿があり、瑞垣内に宝殿2棟があります。拝幣殿は安永8年(1779)竣工の柴宮長左衛門の名建築で、国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社春宮幣拝殿
 桁行1間、梁間2間、楼造り、切妻造り、正面軒唐破風付、銅板葺きです。左右に片拝殿がつながっています。秋宮の幣拝殿とほとんど同じ形式の建築ですが、素木造りで色彩などは施されていません。
諏訪大社下社春宮幣拝殿

 諏訪大社下社春宮の右片拝殿は幣拝殿の向かって左脇に建てられています。桁行5間、梁間1間、1重、片流招屋根付、切妻造り、銅板葺きです。国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社春宮右片拝殿
 諏訪大社下社春宮の左片拝殿は幣拝殿の向かって右脇に建てられています。桁行5間、梁間1間、1重、片流招屋根付、切妻造り、銅板葺きです。国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社下社春宮左片拝殿

 「筒粥殿」という建物があります。毎年、1月14日の夜から、15日の早朝にかけて「筒粥神事」という独特の行事を行います。神職がその建物の中心にあるいろりを囲み、44本の葦筒を、米と小豆を混ぜた粥と一緒に一晩掛かって炊きこみ、葦筒44本のうち43本でその年の作物の豊凶を、残りの一本で世の中全般を占うものです。
諏訪大社下社春宮筒粥殿



熊野神社
くまのじんじゃ
長野県諏訪郡下諏訪町社7505


 熊野神社は諏訪大社下社春宮の近くの山の麓に建っています。東山田村は古くから修験道が盛んだった所で、産土神として勧請されたのが始まりと伝えられています。
 境内には、修験道の場所としての名残りが多く見られます。石段の中ほどには、行者の修行場所である行屋があり、本殿付近には多くの石碑や境内社があります。また修験者が身を清めた不動滝も近くにあります。
 長い石段の上に拝殿があります。切妻造の拝殿の前には御柱が建ち、背後の斜面に石段と本殿が続いています。
 本殿は安永8年(1779)に大隈流の柴宮(村田)長左衛門によって建てられました。一間社、平入り向唐破風流造り、柿葺きで、細部には豪奢な彫刻が施されています。熊野神社本殿は昭和46年(1971)に下諏訪町の有形文化財に指定されています。
熊野神社本殿
 行屋は修験道行者の修行場所であると同時に、公民館や公会所のような役割も持っていたようです。この行屋は享保の「一村限村地図」にも記されていました。その後、明治初期に再建されたものです。桁行5間、梁間4間、坪数19.6坪、茅葺きで諏訪地方唯一の行屋の遺構です。昭和51年(1976)に下諏訪町の有形文化財に指定されています。
熊野神社行屋



万治の石仏
まんじのせきぶつ
長野県諏訪郡下諏訪町東山田
Tel 0266-27-1111 下諏訪観光協会


 諏訪大社下社春宮の旧参道脇に不思議な石仏があります。伝説によると諏訪大社春宮の鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したそうです。石工たちは恐れをなし仕事をやめたそうです。ノミの跡は今でも残っているということです。
 その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると教えられ、言われたとおり行ってみると良材を見つけることができたそうです。石工たちは先の霊の宿る石を敬い、この石に阿弥陀如来を祀ったとのことです。
 参道入り口に、画家の岡本太郎氏による碑が立っています。岡本先生は「世界中でこんなおもしろいものは見たことがない」と惚れ込み、作家の新田次郎先生も南米イースター島から渡来した首という想定で小説を書き話題となりました。



鶴峯公園
つるみねこうえん
長野県岡谷市川岸上3−13−1
Tel 0266-23-4811 岡谷市商業観光課


 鶴峯公園は中部日本一のつつじの名所です。5月中旬から下旬にかけて、30余種3万株ものつつじが咲き乱れ、赤・ピンク・紫・白など、その見事さに連日遠くから大勢の見物客でにぎわいます。
 鶴峯公園は岡谷から県道14号線を辰野方面に車を走らせて行くと右側にあります。この公園は初め片倉合名会社の所有地で、かつては蔓根崎・蔓根山と呼ぶ松林でした。
 昭和元年(1926)、片倉会社では、この山を憩いの場とし、噴水や散歩道を作りました。昭和4年(1929)、11月初代片倉兼太郎の銅像を建設し、公園化して鶴峯と改称したのでした。
 この銅像建立を記念して川岸村会は、この地につつじ300本株を植えることを決め、埼玉県安行から、購入することにしました。ところが安行側の勘違いで貨車3台もの大量のつつじが送り込まれたのでした。
 それでもそれらのつつじを村内有志が懸命に奉仕して幾日もかかって植樹したということです。初代の片倉兼太郎の銅像は、戦争中金属回収の対象となり、昭和18年(1943)に撤去されました。
 しばらくは台座のみ残っていたそうです。戦後有志によって台座に翁のレリーフ胸像を再建し、今日に至っています。



旧林家住宅(シルクの館)
きゅうはやしけじゅうたく(しるくのやかた)
長野県岡谷市御倉町2−20
Tel 0266-22-2330


 旧林家住宅は明治9年(1876)に天竜製糸所として創業した一山カ(いちやまか)林製糸所の初代社長・林国蔵の旧住宅です。林国蔵は明治の岡谷の製紙業草創期に、片倉、尾沢とともに開明社を組織して製糸技術の改良をはかり、日本の近代製糸業発展の基を築きました。
 旧林家住宅は林国蔵の宅邸として明治20年代から40年(1887-1907)代初期に、大隅流第14代の棟梁・伊藤佐久二の手により建てられました。西洋技術と伝承技術が巧みに融合した建物として知られています。
 建物は、主屋と離れの座敷、茶室、洋館に分かれ、主屋の南側には繭倉庫の形式をとどめる土蔵が並んでいます。洋式技術をとりいれながら、豊富な種類の材木をふんだんに使った豪壮かつ丁寧に造られています。
 主屋は建築面積219.03平方m、木造2階建、切妻造り、妻入の本棟造り、桟瓦葺きで、切妻造りの玄関を設けています。離れ、洋館、内蔵の穀蔵、味噌蔵とともに明治40年(1907)頃建てられたとみられ、いずれの建物も平成14年(2002)、国の重要文化財に指定されています。
旧林家住宅主屋
 主屋の2階には金唐紙(きんからかみ)という壁紙を張った部屋があります。西洋に革を使った金革紙という装飾壁紙があり、それを真似て和紙で作ったのが金唐紙です。明治・大正期に盛んに輸出された壁紙ですが、当時の金唐紙がそのまま残っているのはここだけだそうです。
旧林家住宅主屋
 旧林家住宅離れの洋館は茶室と一つの棟の中に造られています。木造平屋建で、正面に切妻造りの玄関ポーチを設けた洋式技術を巧みに取り入れた建物です。
旧林家住宅洋館
 洋館は商談に訪れた外国人をもてなすために造られたといわれています。明治40年(1907)頃建てられたとみられ、平成14年(2002)、国の重要文化財に指定されています。
旧林家住宅洋館
 旧林家住宅の外蔵は明治26年(1893)に建てられたと考えられています。切妻造り、平入、二階建土蔵造りです。また内蔵の穀蔵及び味噌蔵も、二階建土蔵造りで、いずれも平成14年(2002)、国の重要文化財に指定されています。
旧林家住宅外蔵


信州長野トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置