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信州長野の旅と歴史
信州・佐久の旅    佐久・新海神社

守芳院
しゅほういん
長野県佐久市上平尾1776
Tel 0267-67-3714


 平尾山守芳院は曹洞宗のお寺で、平尾山のふもとにあります。天文元年(1532)、領主の平尾弾正源守信が南洲道運禅師を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
 その後弘治3年(11557)、平尾右近源守芳が祖父の志を継ぎ、堂宇を再建し、守芳院という現院号に改称しました。元禄10年(1697)に規模を拡大して現在地に移っています。明治15年(1882)、庫裏、玄関、書院を改造しています。
 門前に下田歌子の顕彰碑があります。下田歌子は平尾 鉐(せき)といい、信州名族依田氏の子孫で平尾家を興した守芳院開基の家系でした。歌子は容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともいわれ、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園や順心女子学園設立の基礎を築きました。
下田歌子顕彰碑



西念寺
さいねんじ
長野県佐久市岩村田本町1188
Tel 0267-67-2378


 一行山西念寺は浄土宗の名刹で岩村田商店街の近くにあります。旧小諸藩主・仙石秀久、旧岩村田藩主・内藤美濃守正国の菩提寺で墓所があります。また江戸中期の国学者、吉沢鶏山の墓と句碑があります。
 弘治元年(1555)、岌往(きゅうおう)上人が十王堂と呼ばれるところで浄土宗の布教を始めましたが、他宗の迫害にあい他国へ追われました。永禄3年(1560)、檀徒が資金を出し合い本堂を建立し、上人を迎え入れたのが西念寺の始まりと伝えられています。
 西念寺は小諸藩主・仙石秀久から崇敬され、登城の折には第一の座を与えられたそうです。文禄年間(1592-1596)に堂宇の修築や境内の整備を行い、自らの菩提寺としました。3世の惠頓は慶長元年(1596)仙石秀久の母の死に際し、導師を務め、4世の岌圓は慶長19年(1614)、秀久の葬儀の導師を務めました。
 元禄16年(1703)に岩村田藩が立藩すると藩主である内藤家の菩提寺となり寺運も隆盛しました。寛永年間(1748-1751)に再建された本堂、山門、楼門などの諸堂が整備されました。

 小諸藩初代藩主でのちに上田藩主となった仙石権兵衛秀久の墓です。豊臣秀吉の最古参の家臣で、戸次川の戦いで独断専行で、島津軍に大敗を喫し改易されました。小田原の役で挽回し大名に返り咲いた数少ない武将で、石川五右衛門を捕縛したとの伝説もある人物です。秀久の墓の左には秀久の弟の政直の墓があります。素行が悪く西念寺に預けられていたそうです。
仙石秀久墓所
 庭の左奥に藤棚があり、その下に吉沢鶏山(清右衛門)の句碑があります。
「籬(まがき)などいふがくどさに野菊かな」
 鶏山は岩村田の古い歴史を今に伝える「四隣譚藪(しりんだんそう)」という書物を著しています。
吉沢鶏山句碑



鼻顔稲荷神社
はなづらいなりじんじゃ
長野県佐久市岩村田花園町4261
Tel 0267-68-8469


 鼻顔稲荷神社は岩村田商店街から徒歩10分ほどの場所に建つ、地元に密着した稲荷神社です。鼻顔は「はなづら」と読みます。めずらしい名前ですが、所在地の小字名をそのままお稲荷様の名前にしただけで、特別な意味はないようです。
  京都の伏見、佐賀の祐徳、茨城の笠間、愛知の豊川とともに日本五大稲荷神社の一つに数えられています。といっても京都・伏見稲荷の分社なのです。400年前の永禄年間に、京都伏見稲荷から勧請して創設されたのだそうです。
 2月の「初午」にはダルマ市や縁起物の露店が参道に並び年の福を願う参拝客で賑わいます。社殿に掲げられている大きな絵馬や、初午祭りの賑わいに往時の繁栄がしのばれます。また福を授けてくれた古ダルマを集めて焼く「奉焼祭」も行われます。
 8月のこんこん祭りでは毎年1000人以上の参加者が思い思いのコスチュームで仮装をして踊るそうです。近くを流れている湯川は、軽井沢の白糸の滝が水源だそうです。
 鼻顔稲荷神社はこの湯川畔の断崖絶壁に建てられていて、朱色の神殿は柱が何本も立ち並ぶ「懸崖造り」です。京都の清水寺によく似ています。商売、養蚕の神として古くから多くの信仰を集めており、最近は合格祈願のメッカとなっています。
 昭和の初めの大恐慌までは、生糸の生産がわが国の主要な産業であり、外貨獲得の重要な手段でした。鼻顔稲荷は特に養蚕家に崇敬されていたため、遠く栃木や群馬からも大勢の参拝者が訪れ、賑わったそうです。



明泉寺
みょうせんじ
長野県佐久市香坂西地2772
Tel 0267-68-3802


 閼伽流山(あかるさん)明泉寺は佐久市香坂にある閼伽流山麓にある天台宗のお寺です。仏道修行の霊地として知られ、観音堂脇の岩間から泉がわき出ています。清らかな水(閼伽)が流れる山ということから閼伽流山の名が生まれたそうです。
 天長3年(826)、慈覚大師円仁が諸国を巡錫した際にこの地に寄り、自らが刻んだ千手観音を安置したのが始まりといわれています。一時、荒廃しましたが、建久年間(1190-1199)に源頼朝が三重塔を建立して諸堂を修復しました。
 天文16年(1547)、武田信玄が村上義清との戦いを前に戦勝を祈願し、天国の太刀、狩野法眼元信筆大絵馬などを奉納したそうです。
 天正年間(1573-1592)には武田勝頼が寺領35貫文を寄せ、諸堂を修造しました。文禄年間(1592-1596)火災により、全山焼失し、65世海舜法印が重興して現在に至っています。
 本堂から800mほど登ったところに、千手観音堂や鐘楼、無数の石仏群があります。この石仏は、西国33番、秩父34番、坂東33番の百観音石仏で、伊那高遠の石仏師が彫ったそうです。大正12年(1923)昭和天皇が摂政の宮時代に観音堂まで登られ閼伽流山の名を一躍有名にしたそうです。



正安寺
しょうあんじ
長野県佐久市内山7864
Tel 0267-62-6499


 宝寿山正安寺は内山城近くにある曹洞宗のお寺です。正安元年(1299)の開創で、当時は寺中36坊を有する大寺であったそうです。初めは天台宗でしたが、のちに臨済宗に改宗しました。応永の頃は荒廃して廃寺同様になりました。
 文亀元年(1501)、甲州の総泉院より海秀玄岱禅師が来訪し、領主の内山美作守の助力を得て再興し、曹洞宗に改め、寺号も正安寺と改め開創しました。
 3世の月舟英文禅師の代の天文10年(1542)、内山城主となった武田家の家臣、小山田備中守は堂塔伽藍を現在地に移し、庇護しました。武田信玄が内山城に来城した時、山林御朱印制札と、「甲守」の山号、「甲守戦勝」の額面を授けたそうです。
 宝暦年間(1751-1764)に大梅(たいばい)禅師が16世として入山し、山号を「宝寿」に改めました。参禅に訪れる信者で門前に列をなしたそうですが、宝歴6年(1756)、寛政7年(1795)に火災に遭い、灰塵に帰したそうです。仏殿は羅漢堂とも呼ばれ、堂内には五百羅漢があります。
 境内には大梅禅師の墓があります。大梅禅師は禅2宗の中にあって臨済宗の駿河国の白隠禅師と並び称される曹洞宗の高僧で、曹洞宗大本山総持寺の輪番をも務めました。大梅禅師の墓は佐久市の有形文化財に指定されています。
大梅禅師墓碑



旧中込学校
きゅうなかごみがっこう
長野県佐久市中込1877
Tel 0267-62-7845


 旧中込学校は明治8年(1875)に建てられたわが国最初の洋式学校です。8角形の望楼には太鼓が吊され時を告げたので「太鼓楼」とも呼ばれていたそうです。昭和44年(1969)に国の重要文化財に指定されています。
 現存する洋風学校建築では日本で最も古いといわれる洋風校舎です。木造2階建で、正面にポーチとベランダ、屋根に8角形の尖塔を配した、白を基調とした美しい建物です。
 設計は地元の棟梁の市川代治郎です。岩倉具視(ともみ)とともに渡米に随行し、洋風建築を学んだ人物です。まだガラスも珍しかった時代に、ステンドグラスを使用しています。
 天井には世界の首都の方向が示され、山国で世界へ視野を向けていた先人の思いが伝わってきます。旧中込学校は明治8年(1875)に開校した尋常小学校、成知学校が前身です。現在は教育史料館になっています。



金台寺
こんだいじ
長野県佐久市野沢十二町106
Tel 0267-62-2514


 紫雲山金台寺は時宗のお寺で、先ごろ有名になったぴんころ地蔵の近くにあります。弘安2年(1279)、時宗の開祖一遍上人が開山と伝えられています。
 佐久地方は一遍が広めた「はねばはねよ、踊らば踊れ」の踊り念仏が今ものこっています。時宗の中心は諸国遊行による札くばり(賦算)でした。佐久を訪れ、金台寺で踊り念仏を始めたとされています。
 寺宝の「一遍上人絵伝巻」は、宝暦7年(1759)、藤沢の遊行寺から送られたもので、国の重要文化財に指定されています。一遍の高弟聖戒(しょうかい)が選述し、法眼円伊が描いたものです。



龍岡城五稜郭
たつおかじょうごりょうかく
長野県佐久市田口3000
Tel 0267-82-3111 佐久市臼田支所経済建設課


 龍岡城は函館の五稜郭と共に日本に2つしかない星形の洋式築城で貴重な遺跡です。現在城跡には小学校が建っています。幕末末期の城で完成が慶応3年(1867)です。日本でもっとも新しい城郭といわれています。
 幕末、幕府の老中・陸軍総裁など幕府の要職にあった龍岡藩主松平乗謨(のりかた)が元治元年(1864)3月着工させ、慶応3年(1867)に完成させました。大給松平氏の領地は、本領三河4千石と信州領1万2千石でした。
 文久3年(1863)正月、藩主乗謨は、大藩頭(おおばんがしら)に登用されたました。本領の手狭さから、信濃領に本領を移し、併せて新陣屋五稜郭の建設を幕府に申請し許可されたことから築城しました。
 城内の建造物は、大給松平氏が城を持てない「陣屋格」であったため、天守などの防御施設はありません。明治4年(1871)、明治政府の藩籍奉還・稜郭取り壊し令により、龍岡藩(田野口藩を幕末直前に改名)五稜郭は地所、石垣はそのままとし、建物は入札払い下げとなり、残りは取り壊されてしまいました。



新海三社神社
しんかいさんしゃじんじゃ
長野県佐久市田口宮代2394
Tel 0267-82-9651


 新海三社神社は創建ははっきりしませんが佐久郡3庄16郷の総社として崇められてきた大社であり、一の宮などと称されました。「興波岐命」(おきはぎのみこと)を祭神として祀っています。
 「興波岐命」の父親が「建御名方命」(ためみなかたのみこと)といい、出雲の大国主大神の子にあたります。建御名方命は信州諏訪に移り住み、興波岐命は佐久に住み着いたのでした。
 新海三社神社では、佐久地方開拓の祖神で興波岐命と諏訪さまと呼ばれた建御名方命、恵比寿さまと呼ばれた事代主命、八幡さまの誉田別命の4神をも祀っています。古来より源、足利、田口、武田、徳川、大給氏などの武将をはじめ人々の崇敬あつく社領寄進・神殿修理再建が行われました。
 特に源頼朝は源氏の祖神「誉田別命」を深く崇拝しました。甲斐源氏の流れをくむ武田信玄も永禄8年(1565)上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉り勝利をおさめました。
 樹齢数百年の老樹が茂る6万6千平方mの広大な新海三社神社の社域には、東本社、西本社、中本社、神楽殿、三重塔などが建立しています。

新海三社神社三重塔
 新海三社神社の三重塔は新海三社神社の神宮寺の塔として建立されました。風澤の銘により永正12年(1515)の建立と考えられています。様式は和様を主としながらも禅宗様も取り入れられています。東本社とともに国の重要文化財に指定されています。
新海三社神社三重塔
 塔は塔婆の略で、本来仏教的構造物であり、神社にあるのは不思議です。わが国には神仏習合という長い歴史があり、新海神社にも神宮寺があり、神宮寺の塔としてこの地に三重塔が建立されたようです。
新海三社神社三重塔
 明治維新の際、神仏分離令の発布により、神宮寺は川原宿という場所に移されました。この三重塔は、神社の宝物庫という名目で、現位置にそのまま残され破却をまぬがれました。
新海三社神社三重塔

新海三社神社東本社
 新海三社神社の東本社は室町時代の建築と推察されています。祭神は佐久地方開拓の祖神として崇敬された興波伎命です。三重塔とともに国の重要文化財に指定されています。
新海三社神社東本社
 向拝頭貫(ごはいがしらぬき)の木鼻が動物形を意図していること、母屋(おもや)頭貫の左右の木鼻に笹の葉の薄肉彫りがあるところなどに特徴がみられます。海老虹梁や蓑束などから室町中期に建てられたと推定されています。
新海三社神社東本社



上宮寺
じょうぐうじ
長野県佐久市田口宮代2553−1
Tel 0267-82-9651


 新海山上宮寺は新海三社神社の大鳥居よりも手前にある真言宗大覚寺派のお寺です。新海三社神社の別当寺として新海山上宮本願院神宮密寺と称して神社の境内にありました。明治の神仏分離令により現在地に移りました。
 新海三社神社にある三重塔は上宮寺の塔として建立された建物でした。上宮寺の創建は嘉祥2年(849)で、口伝では上宮太子(聖徳太子)の創建ともいわれています。本堂、鐘楼門、仁王門が不自然な位置に配されています。
 上宮寺梵鐘は長野県宝に指定されています。梵鐘は南北朝時代初期の作で、暦応元年(1338)に鋳造され上州高井郷(前橋市)の東覚寺のために鋳造されました。天文12年(1543)に田口城主・田口左近将監長能(しょうげんながよし)によって東覚寺から別当寺の新海大明神に寄進された梵鐘です。
上宮寺梵鐘
 上宮寺金剛力士2像は佐久市の有形文化財に指定されています。檜や松を使った寄木造りです。像高は阿行像が257p、吽行像は259p、室町時代後期の文明2年(1470)に、大工・祐得(ゆうとく)によって制作されています。
上宮寺金剛力士像



駒形神社
こまがたじんじゃ
長野県佐久市塚原字新城
Tel 0267-62-3478 佐久市教育委員会


 駒形神社は旧中山道の塩名田宿と岩村田宿の中間にあります。祭神は騎乗の男女神像で宇気母智命(うけもちのみこと)を祀っています。文明18年(1486)佐久郡の耳取村鷹取城主・大井新左右衛門政継が再建したものです。
 この地には信濃国にあった16の牧の中で最大であった望月牧がありました。広大な台地を利用した馬の産地として有名で、都の天皇に献上され、多くの歌人が望月の牧の歌を詠んでいます。
 駒形神社は「駒形神人(こまがたじにん)」といわれる神馬(しんめ)を扱う神社の隷属民とも関係があり、牧と深い関係のある神社であったと推測されています。
 駒形神社本殿は覆屋の中に鎮座しています。一間社、流造り、栃葺きの簡素で、小規模な建築物ですが、室町時代中期の形式を残す貴重な遺構です。昭和24年(1949)に旧国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。


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