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信州長野の旅と歴史
信州・北信の旅    小布施・須坂

浄光寺
じょうこうじ
長野県上高井郡小布施町大字雁田676
Tel 026-247-3924


 雁田薬師浄光寺は雁田山麓にある真言宗のお寺です。別名「妻恋薬師(つまごいやくし)」と呼ばれ、「嫁が欲しけりゃ雁田へござれ」と昔からいわれ、縁結びの薬師さんとして知られています。浄光寺には国の重要文化財に指定されている室町時代初期の薬師堂があります。
 浄光寺は天平2年(730)に僧玄明が開山したのが始まりと伝えられています。大同4年(808)には坂上田村麻呂が北夷征定の戦勝を祈願、平定の帰路、堂宇を再建したそうです。
 寺域は約4000平方m、堂宇は本堂、庫裏、客殿などを備えています。本堂は明治12年(1879)に焼失しましたが、昭和51年(1976)に近くの旧都住小学校校舎の古材を活用して建てられています。本堂から野面石を無造作に並べたような石段を200mあまり登ったところに薬師堂があります。
  現在の薬師堂は昭和21年(1946)・22年の修理で発見された墨書から、室町時代初期の応永15年(1408)に建立されました。桁行3間、梁間4間、一重の入母屋造りで、軒が深い茅葺きになっています。正面蟇股の彫刻、その他細部の手法に鎌倉後期から室町時代への過渡期の特色をよく残しています。
浄光寺薬師堂
 室町初期に建立された北信濃最古の薬師堂で、国の重要文化財に指定されています。薬師堂の前には回向柱が建てられています。回向柱はお堂の建立落成の時に建立供養したことを示す柱です。釈迦の入滅の時、塔を立てて供養したことが始まりで、仏舎利塔、五重塔、三重塔、五輪塔などと同じ意味あいをもっています。
浄光寺薬師堂



岩松院
がんしょういん
長野県上高井郡小布施町雁田615
Tel 026-247-5504


 雁田山の自然に囲まれた梅洞山岩松院は文明4年(1472)に開山された曹洞宗のお寺です。開基は雁田(かりだ)城主、荻野備後守常倫、開山は不琢玄珪禅師です。
 戦国の武将福島正則や葛飾北斎、俳人小林一茶ゆかりの古寺でもあり、境内には福島正則の霊廟や、蛙合戦の池、庫裡・鐘楼・坐禅堂・総ひのき造りの仁王門があります。 
 岩松院は一時衰退しましたが元和5年(1619)に高井郡4万5千石(内2万5千石は越後魚沼郡)に減封となった福島正則が自らの菩提寺として中興しました。

大鳳凰図
 本堂の大間には21畳敷もある大きさの天井絵があります。葛飾北斎最晩年の大作「大鳳凰図」です。八方睨みの鳳凰ともいわれ、完成したのは、今から150年以上昔の弘化5年(1848)、北斎は89歳の時でした。金箔を4400枚使用して150両の価値があったそうです。
大鳳凰図
 150年以上を経た現在も、スケールの大きな極彩色の絵は見るものを圧倒させます。植物性の岩絵具で、中国より長崎商人の手を経て輸入した辰砂(しんしゃ)、孔雀石、鶏冠石などの鉱石を使っています。
大鳳凰図

蛙合戦の池
 裏庭の池は、桜が満開の頃、何百というヒキガエルが集まって求愛するかえる合戦が有名です。雌が産卵するのを雄が手伝うのですが、雌が少ないので奪い合いになって合戦になるのだそうです。
蛙合戦の池
 小林一茶が詠んだ有名な
  痩せがへるまけるな一茶是に有
(やせがえる まけるな一茶 これにあり)の石碑も建っています。
蛙合戦の池

福島正則霊廟
 岩松院には豊臣秀吉の重臣で賤ヶ岳の七本槍で有名な福島正則の霊廟もあります。正則は寛永元年(1624)享年64歳で他界しました。遺品類も保存されています。
福島正則霊廟
 正則は関ヶ原の戦いでは東軍の徳川に加わって勇名をはせ、広島50万石の大大名になりましたが、幕府の謀略により元和5年(1619)わずか4万5千石の信越地方に国替えさせられてしまいました。
福島正則霊廟



玄照寺
げんしょうじ
長野県上高井郡小布施町大字大島90
Tel 026-247-2100


 玄照寺の前身は随光寺という臨済宗のお寺で千曲川に近い小布施の飯田にありました。戦国時代の戦乱に巻き込まれた末に衰退したそうです。
 天正年間(1573-1591)に武田信玄に仕えた高坂弾正虎綱(とらつな)の寄騎(よりき)、加藤杢右エ門(もくえもん)によって、松代の明徳寺の3世・為岸慶祐(いがんけいゆう)を招聘して玄照寺を開山したそうです。
 玄照寺は度々、千曲川の水害を受け、元禄17年(1704)に、この地に移ったそうです。文政年間(1818-1829)には、良寛と親交のあった儒者・亀田鵬齋(ほうさい)など文人墨客がたびたび訪れ、多くの書画を残しています。

 玄照寺の本堂は明治29年(1896)に焼失し、大正9年(1920)から15年(1926)にかけて再建されました。小布施町の東町の棟梁・三田清助(さんたせいすけ)の手によるものです。本堂は国文学者の高野辰之博士により昭和初期の国定教科書に掲載されたそうです。
玄照寺本堂
 玄照寺の三門は寛政11年(1799)に建立されています。禅宗寺院の特徴である楼門形式で、桁行3間、梁間2間、上層の屋根は入母屋、下層は四柱屋根で、桟瓦葺きになっています。下層には仁王尊を安置し、上層には須弥壇があります。
玄照寺三門
 三門の建築の様式は、一部に唐様(禅宗様)の手法をとり入れた和様でまとめられていて、全体的にこの時代の様式を反映しています。特に蟇股に施された竜、唐獅子、人物の彫刻は見事です。昭和48年(1973)に小布施町の町宝に指定されています。
玄照寺三門



小布施町立歴史民俗資料館
おぶせちょうりつれきしみんぞくしりょうかん
長野県上高井郡小布施町六川550
Tel 026-247-4927


 小布施町立歴史民俗資料館では小布施町の民俗資料を、考古・生活・生産・郷土に分類して展示しています。旧石器時代から平安時代の土器・石器、江戸時代からの生活用具、養蚕や菜種油製造の機械、商いの道具など展示されています。
 また、古墳時代から続く稲作の道具類などもあります。これらの資料の大部分は町民からの寄贈品だということです。小布施の風土と暮らしの移り変わりなどを知ることが出来ます。



梅松寺
ばいしょうじ
長野県上高井郡小布施町町六川141
Tel 026-247-3522


 菅相山梅松寺は真言宗豊山派のお寺です。室町時代の末期に瀬山上人が創建しました。小林一茶ゆかりの寺で、俳人でもあった19世住職独楽坊知洞は一茶と交友が深く、一茶はたびたび寺に泊まって句を詠んだそうです。一茶は文化10年(1813)六川村を訪れて以来、たびたび当寺を訪れ、句会などを開き、小布施地域の門人の俳諧指導にあたったそうです。
 寺の前には
  真丸に芝青ませて夕涼
             
 本堂前には
  侍に縄を追せる御馬哉
             の句碑があります。



おぶせミュージアム・中島千波館
おぶせみゅーじあむ・なかじまちなみかん
長野県上高井郡小布施町大字小布施595
Tel:026-247-6111


 おぶせミュージアム・中島千波館は平成4年(1992)10月に開館しました。潤いのある町づくりのために、住民が集える文化の拠点をと、小布施町が建設しました。日本画家・中島千波の作品を展示する常設館、企画展示室、屋台蔵があり、県外からの来館者も多く、年間7〜8万人が訪れています。
 常設館は「中島千波の全てが分かる展示」を目標に、院展出品の150号の大作、桜の屏風をはじめ、日本画、スケッチ、挿し絵など、収蔵する約500点の作品を入れ替えて展示しています。
 中島千波は昭和20年(1945)、日本画家の中島清之の3男として疎開先の小布施で生まれました。桜や牡丹などに代表されるみずみずしくて華やかな花の作品が印象に残ります。
 別棟の2つの屋台蔵には、町内に7台ある祭り屋台のうち、中町、伊勢町、横町、福原、六川の5台を展示しています。北斎館で展示する2台と同時期の、江戸後期から明治初期に造られた2階建ての屋台で、当時の繁栄と住民の心意気を見ることができます。



高井鴻山記念館
たかいこうざんきねんかん
長野県上高井郡小布施町大字小布施805ー1
Tel 026-247-4049


 高井鴻山記念館は、鴻山の生涯と作品を顕彰するために、屋敷の一部を小布施町が譲り受け昭和58年(1983)に開館しました。鴻山は、文化3年(1803)小布施町に父熊太郎、母ことの4男として生まれました。
 京都や江戸に出て国学、蘭学、漢学などを広く学び、詩文や書、絵画など芸術にも優れた才能を発揮しました。幕末威信の激動期に時局の変化に対応しつつ、陽明学の教え知行合一の精神で国利民福の信条を貫いた人でした。
 北信濃きっての豪農商であった高井家は、飯山藩や京都・九条家などの御用達を勤め、小布施を拠点に江戸、京阪、北陸、瀬戸内まで大きい商いを展開しました。間口30間(54m)奥行80間(144m)の広大な敷地に、本宅をはじめ蔵などが軒を連ねていました。
 高井家には多くの志士が訪れて国事を論じたそうです。身の安全を考えてとっさの時に逃げられる工夫をしてありました。一見押入に見せて中に二重の床板を張り逃げ穴を通って逃れられるように作られています。
 
 第1展示室の文庫蔵では、鴻山の生涯をパネルで紹介するほか、12m近くある豊田村永江神社ののぼり、花鳥画などが常設展示されています。第2展示室の屋台庫は、北斎の下絵を手本にして描いた鴻山の作品や、岩松院の鳳凰図など、北斎の描いた原画を展示しています。
 第3展示室の穀蔵には鴻山の晩年の作品である妖怪図が展示されています。妖怪図は、幕末から明治にかけて激変する社会の中で、鴻山が悩み苦悩した心中を表した作品といわれています。  

 北斎の画室だった「碧い軒(へきいけん)」が建てられています。北斎は高井邸で毎日「日新除魔」という獅子を描きました。これが終わらない限り来客があっても接見しなかったそうです。
碧い軒



北斎館
ほくさいかん
長野県上高井郡小布施町大字小布施485
Tel 026-247-5206


 北斎館は昭和51年(1976)に開館しました。小布施の人々は江戸時代の画狂人「葛飾北斎」(1760-1849)が、晩年を過ごした小布施を世に出そうと、様々な試みを繰り広げました。 その集大成として開館したのが、北斎館でした。
 北斎館には年間27万人もの来館があり人気があります。同館が大切に保管している肉筆画は約50点あまりです。明治期にかなり海外に渡りましたが菊図や生首図などここに戻ってきています。
 傑作「冨嶽三十六景」を世に送り出した北斎は、高井鴻山に招かれ、85歳と86歳に半年ずつ滞在、岩松院の天井絵と小布施祭屋台の天井絵を描き上げました。
 北斎館に展示されている祭屋台は、戦前まで夏の祇園祭で実際に使われていたもので、上町の天井絵の「男浪・女浪」、東町の「龍・鳳凰」は、特に有名です。北斎も細部に至るまで作成しています。



日本のあかり博物館
にほんのあかりはくぶつかん
長野県上高井郡小布施町大字小布施973
Tel 026-247-5669


 日本のあかり博物館は竹風堂本店の中庭にあり昭和57年(1982)にオープンしました。小布施は、 江戸時代から明治時代にかけて、 菜種の生産が盛んで、最盛期には搾油所が29軒もありました。菜種油は、江戸時代のあかりの燃料として不可欠のものでした。
 博物館に収蔵されている約2000点の灯火具の中で、昭和55年(1980)に国の重要有形民俗文化財に指定された「金箱正美コレクション」963点は、わが国のあかりの移り変わりや信越地方の地域的特色、また暮らしにおける知恵や工夫を知るうえで民族的にも学術的にもたいへん貴重なものばかりです。



臥竜公園
がりゅうこうえん
長野県須坂市臥竜2ー4ー8
Tel 026-245-1770 臥竜公園管理事務所


 臥竜公園はさくら名所100選に選ばれています。見どころは竜ヶ池の周りの200本の桜です。池に映える桜と幻想的な夜桜が最高です。周辺には動物園や遊園地なども整備されています。
 竜が臥しているように見える臥竜山の美しい松は竜臥池に映え「日本の名松100選」にも指定されています。設計者は、明治神宮や日比谷公園、小諸懐古園などを設計した本多静六(1866-1952)東大教授です。昭和6年(1931)築造の趣のある公園です。



豪商の館・田中本家博物館
ごうしょうのやかた・たなかほんけはくぶつかん
長野県須坂市大字小山穀町476
Tel 026-248-8008


 田中本家は代々須坂藩の御用達を勤め名字帯刀が許された大地主に成長しました。幕末には士分として藩の財政に関わる重責も果たし、北信濃屈指の豪商になりました。
 豪商の館・田中本家博物館は、田中家の生活文化を見てもらうため平成5年(1993)4月15日にオープンしました。年間15万人もの来館があるそうです。常設展示コーナーは、実際に使用されていた江戸から昭和までの調度品、陶磁器、漆器、衣装、おもちゃなどを展示しています。
 当時の面影をそのまま残す屋敷構えは豪華なもので、20の土蔵で囲まれた3千坪の土地の中に、四季折々の美しさを楽しめる日本庭園、生活を伝える客殿、主家などの建物があり、現在は土蔵5棟が展示室として使われています。
 田中家の庭園は浅間山の大噴火による天明の大飢饉の時、住民の救済を兼ねて京都より庭師を招いて作られた庭園です。裏山を借景にし池を巡る池泉回遊式の庭園です。
田中家庭園



米子大瀑布
よなごだいばくふ
長野県須坂市米子
Tel 026-248-9005 須坂市役所産業振興部 商業観光課


 米子大瀑布は四阿山、根子岳の北西側にあります。滝の近くには「米子不動尊奥の院」があります。日本3大不動尊の1つで、正式には瀧山不動尊です。弘仁年間(810-823)に空海が東国巡錫の際に滞在したと伝えられています。
 崖の高さは約85mありそこから水が流れ落ちるさまは圧巻です。その様子は雄大で日本の滝100選に選ばれています。長野県内では、他に安曇村の「三本滝」、南木曽町の「田立の滝」が選ばれています。
 米子大瀑布は権現滝と不動滝という二つの滝からなりたっています。いずれも直瀑で、落差は権現滝が75m、不動滝が85mあります。これだけの落差の滝が2つ並ぶ眺望は日本国内ではあまり聞いたことはありません。権現滝は滝の幅5mで水量が多く真っ直ぐな直瀑です。轟音とともに豪快に落ちる男性的な滝です。
権現滝
 不動滝は柔らかなシルクの布を扇状に広げて幾重にも落としたような霧状の滝です。水量が少なく霧状に流れる落ちる姿が女性的です。最近では「恋人滝」ともいわれています。
不動滝
 米子大瀑布の水は周辺の渓流を合流させ、須坂市内を北西へと流れ、千曲川(新潟県に入ると信濃川になります)に注いでいます。
 根子岳、四阿山(あずまやさん)、奇妙山に囲まれ平安時代より米子不動を中心とした山岳信仰が盛んだったといいます。戦争中は米子硫黄鉱山があり大勢の人が働いていたといいます。現在は跡地が寂しげに残っています。


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