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信州長野の旅と歴史
長野市の旅    松代・象山地下壕


松代
まつしろ

 松代は、真田十万石、信州随一の城下町でした。にぎわう北国街道からは外れ、北国街道松代通りと呼ばれる脇街道に位置しました。 昭和41年(1966)に長野市に編入されました。取り残された反面、城下町はかつての町並みがよく保存され魅力ある場所になっています。
川中島合戦の戦跡、藩主が居住した真田邸跡、佐久間象山がつくった電信塔、藩校の文武学校など史跡や文化財も多く残っています。第2次大戦末期に建設された大本営の地下壕があり、その一部には東洋一の気象庁地震観測所があります。



海津城跡(松代城跡)
かいづじょうせき(まつしろじょうせき)
長野県長野市松代町殿町35
Tel 026-224-5042


 松代城は戦国時代には海津城と呼ばれ、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせた城です。武田24将の1人高坂弾正を海津城主として上杉謙信の信濃への侵攻に備え、川中島4郡の要の地の最前線根拠地として築いた城です。
 永禄4年(1561)の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。  
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可(ながよし)が海津城主となりましたが、同年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、海津城は上杉景勝が支配するところとなりました。
 その後、豊臣秀吉を経て徳川家康が支配する時代になると、家康は上杉景勝を牽制するために森長可の弟森忠政を海津城主にしました。そして川中島4郡13万7千石を与えたのです。
 慶長8年(1603)森忠政が美作津山に移り、徳川家康の6男松平忠輝が入封しました。その後、城主は松平忠昌・酒井忠勝と入れ替わりました。
 元和8年(1622)真田幸村の兄で、関ヶ原の合戦・大坂の陣で徳川方についた真田信之が信州上田から10万石で入封しました。以後、真田氏10代の居城として明治維新を迎えます。城の名を松代城と改めたのは正徳元年(1711)真田家3代幸道の時からです。



池田満寿夫美術館
いけだますおびじゅつかん
長野県長野市松代町殿町城跡10
Tel 026-278-1722


 長野市出身の国際的アーティスト「池田満寿夫」の美術館として平成9年(1997)4月に松代に開館しました。その旺盛な制作活動のさなか、美術館開館直前に惜しくも63歳で急逝、美術館開館を念頭に制作された「美貌の青空」「土の迷宮」シリーズが最後の作品になりました。
 池田満寿夫は、版画家、画家、彫刻家、陶芸家、芥川賞作家、エッセイスト、映画監督など多彩な顔を持つ天才的マルチアーティストでした。
 西陣織り打掛けの超大作レリーフ・コラージュ「天女乱舞」、庭園のブロンズ彫刻などは池田芸術の精華との評価も高い作品です。



真田宝物館
さなだほうもつかん
長野県長野市松代町松代4ー1
Tel 026-278-2801


 真田宝物館には松代藩主真田家の戦国の世以来400年以上にわたる膨大な宝物が保管展示されています。真田家12代当主故真田幸治氏が昭和41年(1966)に松代町に寄贈した美術品や調度品などの家宝が当時を忍ばせます。
 武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康以下歴代将軍、真田家歴代の古文書、秀吉から拝領した三原の刀などの刀剣類(以上県宝指定)、天正3年(1575)の長篠の戦いで亡くなった真田信綱の青江の太刀(重要文化財)、甲冑等武具、服飾、書画、調度茶器、古文書など数万点を収蔵、入れ替え展示しています。



恩田木工民親 屋敷跡
おんだもくたみちか やしきあと
長野県長野市松代町松代4
Tel 026-278-2801 真田宝物館


 恩田木工民親は松代藩の財政建て直しを成功させた家老です。宝暦7年(1757)、6代藩主・真田幸弘の命により、藩財政の統括役職「勝手方御用兼帯」となり、藩政改革に着手しました。嘘をつかず、誠実であることを信条とした彼の改革は義弟の望月治左衛門らに受け継がれ、発展していきました。
 民親は享保2年(1717)、松代藩の家老・恩田木工民清の子として生まれました。享保20年(1735)に家督を継ぎ、延享3年(1746)に30歳で家老となっています。宝暦12年(1762)、45歳の若さで急逝しました。正五位を贈られています。 



真田邸
さなだてい
長野県長野市松代町松代1
Tel 026-278-2801 真田宝物館


 真田邸は9代藩主真田幸教によって文久2年(1862)に建築され新御殿と呼ばれていました。参勤交代の廃止で、幸教の正室と義母のお貞の方が江戸から松代に帰ることとなり急遽、お貞の方の隠居所として建てられたものです。
 松代城跡のうち唯一残った建物で、国指定の史跡です。。明治元年(1868)からは真田家の居宅となっていましたが、昭和41年(1966)に真田家から譲渡されました。敷地の広さは6889平方mあります。
 新御殿の規模はなかなか広く大小53の部屋があり坪数は約408坪で創建時から改修されていますが当時のままだといわれています。旧大名の屋敷の面影を今に残している貴重な遺産です。
 「水心秋月亭」と名付けた庭園は小堀遠州の流れをくんでいるといわれています。春はしだれ桜が咲き乱れます。



旧松代藩文武学校
きゅうまつしろはんぶんぶがっこう
長野県長野市松代町松代205−14
Tl e026-278-6152


 旧松代藩文武学校は真田邸の隣りあり、、国の史跡に指定されています。真田家8代幸貫が水戸の弘道館にならって嘉永6年(1853)に建てたものです。
 松代藩士子弟の教育の場として、幕末の洋学者、佐久間象山の意見を取り入れて建てられたようです。文学所、剣術所、柔術所などの多くの建物が現存し、全国の藩校の中でも貴重な遺構といえます。



旧白井家表門
きゅうしらいけおもてもん
長野県長野市松代町松代(殿町)
Tel 026-278-2801 真田宝物館


 旧白井家表門は幕末の中級武士白井家の長屋門です。昭和49年(1974)、長野市指定文化財に指定されましたが、年数が経過し、損傷も激しく、当初の松代町表柴町での保存が困難になりました。平成12年(2000)4月に真田邸の南側・松代町殿町に移築されました。
 文武学校権教授を勤めた白井平左衛門は佐久間象山とも親交があったといわれています。
 旧白井家表門は現在、休憩所として開放されていて、ボランティアの方々が 来訪者に湯茶を接待してくれます。交流の場として好評のようです。



旧真田勘解由家住宅
きゅうさなだかげゆけじゅうたく
長野県長野市松代町松代212
Tel 026-278-2801 真田宝物館


 旧真田勘解由家住宅は約160年前、花の丸の長局を移築したものです。2代目松代藩主真田信政と京の小野お通の娘との間にできた信就を始祖とする真田家分流の家柄です。
 主屋は木造2階建てで、寄棟造り、桟瓦葺きです。北面中央に入母屋造りの玄関が付いています。桁行11間、梁間4間で、東を土間とし、座敷12.5畳を中心とした居室の周囲に縁が巡っています。上級武家住宅の風格を示す貴重な遺構です。



矢沢家表門
やざわけおもてもん
長野県長野市松代町松代
Tel 026-278-2308 松代文化施設等管理事務所


 矢沢家表門は松代藩筆頭家老だった矢沢氏の屋敷の表門で、寛政4年(1792)に再建されました。重厚な表門が風格をたたえています。矢沢家は「松代藩の無役席(家老職より上席)」で「知行千四百石松代藩第一の高禄」だったそうです。
 この屋敷の前の通りは松代城への登城口だったところで、家老職や高級武士の館が並んでいるところだったそうです。屋根には、真田氏のゆかりであることを示す「横六文銭(よころくもんせん)」の家紋がありました。
 表門は間口13.19m、奥行3.72m、高さ6.83m、入母屋造りで、瓦葺きです。長屋門形式で、両側に同心部屋を配置しています。昭和42年(1967)に長野市の重要文化財に指定されています。 平成17年(2005)、向かいの家からの飛び火で延焼しましたが、3年後に復元公開されています。



旧横田家住宅
きゅうよこたけじゅうたく
長野県長野市松代町松代1434ー1
Tel 026-278-2274


 横田家は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていました。泉水を配した庭園、塀で仕切られた庭、土間が狭く、座敷きが整っている点など松代に残る中級武士の住宅の特徴をよく表わしています。国の重要文化財に指定されています。 
 主屋は寛政6年(1794)に建てられています。桁行17.2m、梁間9.5m、寄棟造りです。表門は天保13年(1842)に建てられています。桁行16.4m、梁間3.7m、切妻造り、桟瓦葺きです。他に隠居屋や、土蔵が建ち並んでいます。
 この家で育った横田秀雄は大審院長になりました。その子正俊は最高裁判所長官、秀雄の弟謙次郎は鉄道大臣、姉の和田英は「富岡日記」の著者で優秀な家系です。


多行松(たぎょうしょう)
 アカマツの一種です。高さ4mほどで根元およびその付近から分かれた多数の枝が斜め上に伸び、丸みのある傘形の樹冠をつくります。



日本電信発祥の地
にほんでんしんはっしょうのち
長野県長野市松代町松代片羽166
Tel 026-278-2308 松代文化施設等管理事務所


 日本電信発祥の地の石碑は旧松代藩鐘楼の一角に建てられています。佐久間象山は嘉永2年(1849)、鐘楼と約50mほど離れた御使者屋との間に電線を張り、通信実験を行ないました。
 ダニエル電池を使用しての日本初の電信実験は成功しました。電信機はオランダのショメール百科事典をもとに象山が自作したものでした。象山は電信実験に際し、「サクマシュリ」という自分の名前を送ったといわれています。



旧松代藩鐘楼
きゅうまつしろはんしょうろう
長野県長野市松代町松代片羽166
Tel 026-278-2308 松代文化施設等管理事務所


 旧松代藩鐘楼は真田信之が上田城から移り、松代藩主となってまもない寛永元年(1624)に設けたものです。嘉永2年(1849)、佐久間象山は日本で初めて電信機を作り、伊勢町御使者の居館からこの鐘楼まで電線を架けて通信に成功させました。
 昼夜の別なく一刻(約二時間)ごとに鐘を鳴らし時刻を知らせました。また非常の際にも鳴らしたようです。現存する鐘楼は、亨和元年(1801)に再建されたものです。 
 鐘楼は城下町の度重なる大火で、享保2年(1717)、天明8年(1788)、寛政12年(1800)の3回類焼にあいました。初代、二代の鐘は焼損し、文化3年(1806)に作られた鐘は松太平洋戦争中に供出され、平成3年(1991)にようやく旧鐘の寸法や重量をもとに復元されました。



信州松代美術館
しんしゅうまつしろびじゅつかん
長野県長野市松代町松代166
Tel 026-278-0030


 松代には、多くの優秀な画家が住んでいました。この信州松代美術館は「埋もれた画家」達に光を当てるために建てられました。毎月の第2、第4土曜日には美術品一般の無料鑑定のしてくれます。



象山神社
ぞうざんじんじゃ
長野県長野市松代町松代1502
Tel 026-278-2461


 象山神社は幕末の先覚者・佐久間象山を祀った神社です。 大正2年(1913)象山殉職50年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められました。昭和6年(1931)創立許可がおり、昭和13年(1938)、総桧材桃山式流造の雄大な社殿が建立されました。
 境内には象山蟄居の家である高義亭や煙雨亭があり、隣りには象山宅跡があります。高義亭には、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など多くの明治維新の志士達が訪れ、大いに時事を論じた場所だったそうです。
 佐久間象山は松代藩に生まれ、啓之助と称しました。父や鎌原桐山、活文禅師などから学問、武術を学びます。天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖と親交を結びます。
 大塩平八郎の乱の起るを見て「学政意見書」を藩に提出して陽明学の弊害を述べ、朱子学の再興を主張して天保10年(1839)神田に塾を開きました。
 天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海防掛に命ぜられ「海防八策」を上申します。江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学も習得します。嘉永6年(1853)ペリ−来航に際しては軍議役として横浜警備に当たりました。老中阿部正弘に「急務十事」を上申して横浜開国を主張しました。
 嘉永7年(1854)、象山は門人である吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して罪を問われ投獄されます。44才から9年間松代に蟄居され、文久2年(1862))やっと赦面されました。
 元治元年(1864)、幕命によって上洛、公武合体論と開国論を主張しました。その開明的言動のため攘夷派志士によって京都、三条木屋町で暗殺されてしまいました。
 余年(われとし)二十以後乃ち(すなわち)匹夫も一国に繋る(かかる)あるを知り三十以後乃ち天下に繋る(かかる)あるを知り四十以後は乃ち五世界に繋る(かかる)あるを知る
 一国は松代藩、天下は日本、五世界は世界 



佐久間象山宅跡
さくまぞうざんたくあと
長野県長野市松代町松代1502
Tel 026-278-2461 象山神社


 佐久間象山宅跡は象山神社に隣接する佐久間象山生誕地です。象山は2度目の江戸留学となる天保10年(1839)まで、この地で過ごしました。父国善(一学)は5両5人扶持(70石相当)の家でしたが卜伝流剣術の達人で道場を開いていたため、比較的裕福な幼少時代を過ごしたようです。しかし、元治元年(1864)、佐久間象山が京都で暗殺されると佐久間家は断絶となり、屋敷も壊されたそうです。現在は敷地内に井戸が残るのみとなっています。
 佐久間象山は文化8年(1811)2月11日、この地で生まれました。佐久間家は剣術だけでなく易学でも有名な家柄だったようです。屋敷の面積は877.8平方mで表門、裏門の他、槍・剣術場・学問場があったようです。



象山記念館
ぞうざんきねんかん
長野県長野市松代町松代1446ー6
Tel 026-278-2915


 象山記念館は佐久間象山没後100年祭を機に地元の有志を中心に計画が進められ、昭和40年(1965)に施設が完成。昭和42年(1967)に長野市に寄贈され、オープンした記念館です。遺品や愛用品の展示の他、象山の功績をアニメで紹介するビデオコーナーなどもあります。
 松代藩士・佐久間象山は幼いときより学問に秀で、後に江戸で私塾を開き、多くの優秀な門弟を育てました。天保13年(1842)、8代藩主・真田幸貫が幕府の海防掛に任命されたのを機に西洋事情の研究を行い、開国論を主張しました。元治元年(1864)、幕府の命で京都に上り、その年の7月攘夷派の手により暗殺されてしまいました。



象山地下壕
ぞうざんちかごう
長野県長野市松代町西条479−11
Tel 026-224-8316 長野市観光課


 象山地下壕は太平洋戦争の末期に軍が本土決戦に備えて各種政府省庁などを移設する為に極秘に建設された地下壕です。昭和19年(1944)11月11日から終戦の日まで当時のお金で2億円と延べ300万人の人よって建設されました。
 最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に、象山、皆神山の3カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られました。全工程の75%の時点で終戦となり、工事は中止されました。
 多くの朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、1日3交替徹夜で工事が進められました。食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したといわれています。地下壕入口にはハングル語と日本語で書かれた慰霊碑が建てられています。 
 舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)地下壕は東洋一の地震観測所として使用されています。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っています。



恵明寺
えみょうじ
長野県長野市松代町西条482
Tel 026-278-4456


 恵明寺(えみょうじ)は旧松代藩・真田家ゆかりの寺です。屋根には真田家家紋の六文銭がはっきり見えます。開祖木庵禅師が中国で最後に住持をしていた寺が泉州の象山慧明寺でした。これにちなんで象山恵明禅寺と称しました。
 境内には松代藩3代藩主、真田幸道の奥方「豊姫」の霊屋があります。豊姫は伊達政宗の孫になります。伊予宇和島藩主・伊達宗利の娘で延宝元年(1673)に15才で嫁いできました。その際「鉢植の杏」を取り寄せました。この杏が松代藩の殖産興業となったそうです。

 恵明寺の本堂は長野県の登録有形文化財に指定されています。天保4年(1833)に建てられた建物で、木造平屋建、桁行5間梁間6間、入母屋造り、桟瓦葺で、一重裳階付仏殿風の外観となっています。建築面積は119平方mです。地方における黄檗宗仏殿の遺構です。
恵明寺本堂



竹下随護稲荷神社
 真田幸村の弟、昌親の子である真田信親が江戸の今井の屋敷内に鎮守として祀っていた社です。



長国寺
ちょうこくじ
長野県長野市松代町松代1015−1
Tel 026-278-2454


 長国寺は松代藩主真田家の菩提寺です。曹洞宗に属し、信州総禄所として格式を誇っています。天文16年(1547)真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立しました。元和8年(1622)上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長国寺と改めました。
 六文銭の家紋の入った屋根の造りは、真田家の菩提寺ならではのものです。屋根に海津城から移した全長1mの二つの鯱が逆立っています。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にあり、幸村・大助親子の供養塔もあります。
 真田信之は戦国武将真田昌幸の長男として永録9年(1566)に生まれました。関ヶ原の戦いの際、父昌幸と弟の幸村は石田三成が率いる西軍に属しました。信之は家名存続のため父昌幸の命に従い徳川方の東軍に味方しました。 
 関ヶ原合戦後、敗れた昌幸・幸村は九度山へ配流されました。縁者配流の罪にもかかわらず、東軍についた信之に対しては咎めが無く、旧領の沼田・上田が安堵されました。

 境内には3代藩主真田幸道霊屋を移設した開山堂があります。開山堂は長野県の県宝に指定されています。霊屋とはお墓ではなく霊廟です。祖先又は特定の人の霊を祭るところです。
長国寺開山堂
 真田家4代目の城主・真田信弘の御霊屋は長野県の県宝に指定されています。真田信之霊屋の南隣に、元文元年(1736)の信弘の死後、直ちに建てられたものです。方三間の宝形造り、柿葺きで、縁を回し、向拝が付いています。正面に桟唐戸をつり、組物は出組・詰組で、軒は二軒の繁垂木です。
4代藩主信弘の御霊屋
 沼田藩初代真田信之の御霊屋は当時の名工たちの技を今に伝えています。中でも破風の鶴は左甚五郎、格子天井の絵は狩野幽筆の作といわれ、夜な夜な破風を抜け出し稲を食い荒らしたと伝えられる「松代の民話」の「長国寺の鶴」として有名です。この御霊屋は国の重要文化財に指定されています。
初代真田信之の御霊屋
   元和2年(1616)、真田信之は、父昌幸の築城した上田城に入り、長男信吉が沼田藩2代藩主になりました。元和8年(1622)、松代に移封になり松代藩10万石の藩主となりました。万治元年(1658)この世を去っています。
 長国寺境内には恩田木工民親の墓があります。民親は松代藩の家老勝手掛として藩の財政を建て直しました。そして、その経緯を書き綴った「日暮硯(ひぐらしすずり)」の著者でもあります。
恩田木工民親の墓



蓮乗寺
れんじょうじ
長野県長野市松代町御安1142
Tel 026-278-2685


 海津久龍山蓮乗寺は日蓮宗のお寺です。海津城主の須田氏や佐久間象山の菩提寺です。 元治元年(1864)7月に京都三条木屋町で倒れた佐久間象山の墓と次男恪二郎の墓があります。
 恪二郎は象山とお菊との間に生まれた子供で、象山の死後、父象山の敵を討つため、新選組に席をおいたりしたそうです。しかし、生来のわがままな性格が禍し、新選組を脱退。維新後、享年29歳の若さで亡くなっています。



大英寺
だいえいじ
長野県長野市松代町表柴町1314
Tel 026-278-2387


 大英寺の創建は大英寺は松代藩初代藩主・真田信之が妻である小松姫の菩提を弔うために開いたお寺で、寛永元年(1624)に創建されています。小松姫(大蓮院)は徳川四天王の一人として名高い本田忠勝の娘です。後に家康の養女となりました。
 小松姫は元和6年(1620)に死去し上田の常福寺(芳泉寺)に埋葬されました。信之が松代に移封の際、松代に改葬され御霊屋や鐘楼などが移されました。小松姫は家康の養女になっていたので、大英寺は幕府からも庇護され朱印地100石が安堵されました。
 大英寺は江戸時代に何度も火災にあい、堂宇や寺宝などを焼失しました。松代藩の藩費によってその都度再建されました。明治時代に入ると真田家の庇護から離れ境内も縮小されました。

  現在の大英寺の本堂は寛永元年(1624)に建立された小松姫の霊屋を改装したもので、萬年堂とも呼ばれました。桁行5間、梁間5間の入母屋造り、浅瓦葺き、平入りです。内部は極彩色で彩られた格式の高いもので真田家霊屋建築の中でも最も古い建物です。長野県の県宝に指定されています。
大英寺本堂
 大英寺の表門も霊屋の正門として建立された貴重な建物です。浅瓦葺きの四柱門で長野県の県宝に指定されています。
大英寺表門
 大英寺には見樹院殿の墓があります。真田信之の2女で母は大蓮院殿(小松姫)です。夫の佐久間備前守安次が死去した後、上田に帰り上田城、西の台に住んだことから西の台殿と呼ばれ、松代に移封してからは二の丸殿、信之が隠居してからは柴殿と呼ばれました。 
見樹院殿の墓



大林寺
だいりんじ
長野県長野市松代町松代1224
Tel 026-278-2878


 大林寺は真田昌幸夫人の山之手殿(寒松院)の墓所です。元和8年(1622)、初代松代藩主・真田信之が上田から松代へ移封となった時に上田の大輪寺から母の山之手殿の霊を分霊して松代に建立しました。松代藩の家老をつとめた矢澤家や恩田家の墓もあります。
 大林寺の境内には、松代の民話に出てくる「田掻き地蔵」があります。ある年のこと、お寺のご朱印地ではお手伝いの人たちの手で田おこしをして、後は田掻きを待つばかりとなっていました。突然、集中豪雨がきて町は水びだしとなりました。
 騒ぎで人が集まらず困り果てていると、若者6人がやってきて、泥だらけになって田掻きをしてくれました。その話を和尚が感心して聞いていると、誰かが六地蔵の頬に泥が付いていることに気付きました。手伝ってくれた若者たちとは、実はこの寺の「六地蔵」だったのです。以来、大林寺の「六地蔵」は、人助けをする地蔵として語り継がれることになりました。



林正寺
りんしょうじ
長野県長野市松代町清野947
Tel 026-278-6542


 林正寺は清野の部落の西端、やや小高い場所にあります。林正寺の本堂は、もとは松代藩2代藩主・真田信政の霊屋として長国寺に万治3年(1660)に建てられたものです。昭和27年(1952)に現在の場所に移されました。
 信政は万治元年( 1658)、父の信之に先立って死去し、同じ年に続いて信之も死去しました。信政の霊屋は、信之の霊屋と同時に建てられ、信之の霊屋とまったく同じ造りになっています。 
 林正寺の本堂は、桁行3間、梁間4間、入母屋造りで、瓦葺きです。内部は漆塗りの上に極彩色で彩られ細かな彫刻や組物が施されています。本堂は県宝に指定されています。
林正寺本堂
 林正寺の表門は本堂と同じ万治3年(1660)に建てられたものです。風格ある四脚門で昭和41年(1966)に県宝に指定されています。
林正寺山門

 「カチューシャ可愛や〜」で知られる松代出身の名女優・松井須磨子の演劇碑が林正寺の中にあります。また、玄関の中のホールには、須磨子の素顔の写真、大理石に須磨子自身が彫った恋歌があります。
松井須磨子演劇碑
 松井須磨子は明治19年(1886)、松代町清野に生まれました。本名は小林正子です。坪内逍遙、島村抱月に師事、日本最初の新劇女優として幾多の波乱に満ちた生涯を送りました。抱月との恋に生き、大正8年(1919)、34才の時、抱月の亡き後を追って自らの命を絶ちました。
松井須磨子演劇碑


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