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信州長野の旅と歴史
信州・松本市の旅        松本

梓湖
あずさこ
長野県松本市奈川入山
Tel 0263-94-2307 松本市山岳観光課


 梓湖は上高地を流れる清流梓川をせき止めて作られた奈川渡(ながわど)ダムのダム湖です。秋の紅葉の時季になると、あたり一面が赤や黄などの色に染まり、すばらしい景色になります。
 梓湖は総貯水容量が1億2300万立方mで、長野県最大の湖である諏訪湖の2杯分の水が貯えられるそうです。これは信濃川水系のダムの中で最大です。
 奈川渡ダムは昭和44年(1969)に建設された高さ155mのコンクリートアーチ式のダムです。下流の水殿(みどの)ダム、稲核(いねこき)ダムとともに完成しました。これらは総称して安曇3ダム、または梓川3ダムと呼ばれています。



番所大滝
ばんどころおおたき
長野県松本市安曇大野川番所
Tel 0263-93-2147 乗鞍観光センター


 番所大滝は乗鞍高原の番所地区にある落差40m、幅15mのたきです。小大野川が乗鞍岳の溶岩を刻んでつくった滝で、「善五郎の滝」、「三本滝」とともに「乗鞍三滝」と呼ばれています。
 乗鞍岳は、いくつかの火山からなる複合火山です。最高峰の「剣ヶ峰」付近から噴出した溶岩流は、かつてこの一帯にあった深い谷を埋め、広大な溶岩台地をつくりました。これが現在の乗鞍高原です。
 番所溶岩と呼ばれるこの溶岩流は、番所大滝付近では一枚の溶岩となり、厚さ60mに達しています。黒い岩肌が特徴で、滝の途中の岩に水が砕けて霧のように滝壷へ落ちる様子は荒々しく迫力があります。
 ここには2つの遊歩道があります。右手に進めば滝を間近に見れる展望台へ行かれます。左手に進めば滝を見ながら、遊歩道が楽しめます。



乗鞍高原
のりくらこうげん
長野県松本市安曇大野川
Tel 0263-93-2147 乗鞍観光センター


 乗鞍高原は乗鞍岳から東麓に流出した溶岩(主に番所溶岩)によって形成された東西に細長い山麓高原で中部山岳国立公園にかかっています。
 乗鞍高原は、北アルプス乗鞍岳3026mの東側の裾野に広がる高原です。西端の最高所で約1800m、東端の最低所で約1100mという標高があり、夏でも気候は冷涼です。
 白樺林・高原植物・清流のせせらぎ・池・滝と、多彩な自然を満喫できます。標高が高いため紅葉は9月中旬から始まります。ナナカマド、カラマツ、シラビソの紅葉も見事です。 温泉やスキー場もあり、四季折々、ダイナミックな大自然を体験できます。
 乗鞍エコーラインは日本で最も標高の高い所にある道路です。標高2702mの畳平駐車場まで車で行けます。そこから乗鞍岳山頂まで、3時間ぐらいで往復できます。平成16年(2004)から三本滝から先が、自然保護のためマイカー規制になっています。



松本城
まつもとじょう
長野県松本市丸の内4−1
Tel 0263-32-2902 松本城管理事務所


 松本城は別名「烏城」と呼ばれています。黒々とした外壁は姫路の白鷺城と好対照です。現存する5層の天守閣では日本で一番古く、日本の城の中で最も美しい天守閣だといわれ、国宝に指定されています。
 外見は5層に見えますが内部は6層になっています。窓は少なく、矢や弾を発射する狭間と呼ばれる小窓や石落としなどがあり実戦用の城であることがわかります。
 松本城は、戦国時代の深志の砦から始まりました。室町時代末期の永正元年(1504)、この地方に大きな勢力を持っていた小笠原貞朝が一族の島立貞永に命じて築城させたといわれています。
 以後、小笠原氏の居城となり、「深志城」と呼ばれました。天文19年(1550)武田晴信(信玄)がここを占領し、信濃支配の前線基地としました。 
 本丸御殿跡の一角に「小笠原牡丹」が植えられています。武田信玄に追われた小笠原長時はこよなく愛する牡丹の花が敵兵に踏み荒らされるのを憂い近くの寺に託して城を去ったそうです。その株が移され月見櫓の前に毎年、白い大輪の花が咲きます。
 天正10年(1582)のいわゆる「武田崩れ」や、本能寺の変後の混乱に乗じて、長時の嫡男小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾により深志城を回復し、名を「松本城」と改めました。 
 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一すると、家康を関東に封じ、貞慶の嫡男小笠原秀政も下総の古河へ移されました。
 代って秀吉の有力武将、石川数正が松本城に入城し、城の大改築を行いました。数正は小笠原氏の城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手しました。それは秀吉の威光を天下に示すことでもあったのです。
 数正は松本城の完成を見ずして3年後の文禄元年(1592)朝鮮出兵のために出陣した肥前名護屋城で亡くなります。
 数正の嫡男石川康長は父の遺志を受け継ぎ、慶長2年(1597)頃、5層の天守が本丸西南隅に完成させました。
 徳川幕府の時代になって石川康長は大久保長安の事件に連座した疑いを持たれ、慶長18年(1613)に改易されてしまいました。
 代わって松本城主になったのはかってこの城を治めていた小笠原秀政でした。愛着のある松本でしたが2代目の小笠原忠真(ただざね)の時には播磨明石へ移封されてしまいました。
 その後、松本城主は戸田氏を経て、松平氏に移ります。寛永10年(1633)に城主松平直政が天守に辰巳附櫓と月見櫓を増築しました。現在も残る「連結複合式」の天守が完成したのです。
 その後城主は堀田氏、水野氏と交替しました。享保10年(1725)志摩鳥羽より戸田光慈(みつちか)が6万石で入封してからは戸田氏9代の居城となりました。
 やがて、明治維新になります。明治政府の時代となって松本城の建造物取り壊しが始まりました。明治5年(1872)に天守は競売にかけられ235両で落札されました。
 北深志横田町の戸長であった市川量造氏は、地元松本はもとより東京や関西にまで足を運んで資金を募り、天守を買い戻したそうです。
 天守の荒廃が進んだため、松本中学校長の小林有也氏は明治34年(1901)、時の松本町長小里頼永氏らとともに「松本城天守閣保存会」を結成しました。そして明治の大修理を行ない大正2年(1913)に完成しました。
 その後、再び修理の必要が生じ、昭和25年(1950)から5年かけて天守の解体修理を行いました。また、昭和54年(1979)から6年かけ二の丸御殿跡の発掘調査を行い、ここを史跡公園として整備し御殿の部屋割を平面標示により復元しました。
 平成2年(1990)に黒門枡形の高麗門と袖塀を復元し、2年後には太鼓門枡形の石垣を積替えました。 平成11年(1999)3月には太鼓門枡形が復元されました。
 日本最古の5層6階の大天守を中心に乾小天守を渡櫓で連結し、さらに辰巳附櫓、月見櫓を連結した連結複合式天守閣です。天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の五棟は国宝に指定されています。

 天守前の本丸御殿跡に「清正公駒つなぎの桜」があります。加藤清正が松本城に立ち寄った時、城主石川康長が二頭の駿馬のうち良いほうを進呈すると言ったところ、清正は二頭とも貰い受け、その時に馬をつないだのがこの桜の木といわれています。 
 松本城の天守閣の天井には神棚が設けられていて城を守っています。



旧開智学校
きゅうかいちがっこう
長野県松本市開智2−4−12
Tel 0263-32-5725


 開智学校は、日本で最も古い小学校のひとつで、明治を思わせる日本最古の擬洋風建築物の代表 です。明治6年(1873)5月に開校後、校舎は明治9年(1876)4月に新築され、昭和38年(1963)3月まで90年間使われていました。
 和風と洋風が入り混じった文明開化を象徴する建物で、松本市街でひときわ目立っています。昭和36年(1961)国の重要文化財に指定されました。
 木造2階建て左右対称の中央部は、バルコニー付きの8角形の高楼がそびえています。窓は両開き硝子戸で、外側に両開き板戸を付けています。正面に中央玄関ポーチを突出させ、2階は唐破風屋根となっています。
 立石清重氏の設計による白壁にギヤマンの窓が美しい擬洋風学校建築の代表的遺構です。彫刻を施された建築には文明開化の薫りが漂います。昭和39年(1964)に現在の場所に移築されました。 



旧松本高等学校
きゅうせいまつもとこうとうがっこう
長野県松本市県3−1−1
Tel 0263-32-1812


 旧制松本高等学校は、大正中期の高等教育機関拡張期に開校した文部省直轄学校の一つです。明治27年(1894)の高等学校令によってそれまでの高等中学校から高等学校に改称し、明治41年(1908)までに一高から八高までのいわゆるナンバースクールが開校しました。第2弾の大正7年(1918)発令の新高等学校令により地名のつく高等学校の先陣をきって旧制松本高等学校は開校されました。
 旧松本高等学校の本館は大正9年(1920) ,講堂は大正11年(1922)に建てられた建物です。設計は文部省大臣官房建築課が行いました。2つの建物とも平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
 昭和24年(1949)に国立信州大学文理学部となり、昭和48年(1973)に信州大学は市内の旭キャンパスに移転しました。市民や同窓会の強い願いによって旧校舎はヒマラヤ杉の並木とともに保存され、「あがたの森文化会館」として現在も活用されています。
 校舎は、昭和25年(1950)から信州大学の文理学部・人文学部校舎として昭和48年(1973)まで使用されていました。全国的に旧制高等学校の遺構が少なくなっている中で、当時の状況が最も良好に保存されている唯一のものといわれています。
 本館は木造2階建て寄棟造り、桟瓦葺きです。外壁は下見板張りで欄間部が本壁造り白漆喰仕上げになっています。平面はコの字型で角隅部を大きく面を取り正面玄関としています。玄関周りは特に意匠に凝っています。講堂も本館と同様な仕様で、切妻、銅板葺きで、曲線の玄関ポーチなど、装飾細部の意匠密度を高めています。



筑摩神社
つかまじんじゃ
長野県松本市筑摩2ー6ー1
Tel 0263-25-1835


 筑摩神社は国府八幡宮ともいわれ、信濃の国府がこの地にあったことを伝える神社です。八幡神である息長帯比売命(神功皇后)、誉田別命(応神天皇)と宗像3女神である多紀利比売命、狭依比売命、多岐津比売命を祀っています。
 筑摩神社は延暦年間に坂上田村麻呂が八面大王を征伐するためにこの地を訪れ、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願したことが始まりと伝えられています。松本に信濃の国府が置かれると国府八幡宮と称し、中心的な神社の1つとなり、信濃守護の小笠原氏の庇護を受けました。
 筑摩神社は南北朝の戦乱で永享8年(1436)に焼失しました。永享11年(1439)には小笠原政康が社殿を再建させました。本殿はこの時の建物で、松本地方最古の建造物で国の重要文化財に指定されています。三間社、流造りで、室町時代の手法を残す檜皮葺きです。
 慶長15年(1610)には松本藩主石川康長により、柿葺き、入母屋造りの拝殿が寄進されています。拝殿は長野県の県宝に指定されています。また境内にある銅鐘は筑摩神社別当寺で廃寺になった安養寺の梵鐘です。永正11年(1514)に小笠原長棟が寄進した陰刻があり、松本市の重要文化財に指定されています。



若宮八幡社本殿
わかみやはちまんしゃほんでん
長野県松本市筑摩3−6−2
Tel 0263-33-3980 松本市教育委員会


 若宮八幡社のはじまりは不明ですが、古くから仁徳天皇を祀る社で、松本城本丸の大堀の中の島に祀られた松本城鎮守守若宮八幡社の社殿でした。寛文10年(1670)、水野忠直が社殿造営時にもらい受け、解体せずにこの地へ移したものと伝えられています。
 小笠原貞慶が深志城主となり、深志城を松本城に改めたのが天正10年(1582)頃のことでした。天正13年(1585)には城郭の拡張計画を立てており、社殿もこの頃の造営されたと思われます。
 城の鎮守の神社として、江戸時代以前のものは全国的にも類例がなく、比較的小さく簡素ですが貴重な遺構です。 若宮八幡社社殿は昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。



松本神社
まつもとじんじゃ
長野県松本市丸の内10ー37
Tel 0263-32-8514


 松本神社の前身は、縁結びや郷土発展の神として信仰を集めた暘谷(ようこく)大神社です。寛永13年(1636)に松平丹波守光重が播磨国の明石城内に叔父である松平孫六郎永兼を祀った神社です。永兼は松本城主松平(戸田)康長と松姫の子でした。
 享保11年(1726)、松平光慈(みつちか)の代で松本移封となり松本城内である現在地に遷座しました。その後、寛永9年(1797)に片宮八幡宮(祭神・一色義遠)、今宮八幡宮(祭神・戸田宗光)を合祀、天保2年(1831)には共武大神社(祭神・松平康長)、淑慎大神社(祭神・松姫)を合祀して5社と称しました。
 松平康長は戸田松平家の祖で、正室の松姫は徳川家康の異父妹で、松平姓とともに三つ葉葵の紋を下賜されました。昭和28年(1953)には松本城鎮守社であった若宮八幡宮(祭神・深志城主島立貞永)を合祀して松本神社と改称しました。松本神社は縁結びの神として信仰されています。



馬場家住宅
ばばけじゅうたく
長野県松本市大字内田357ー6
Tel 0263-85-5070


 馬場家住宅は塩尻市との境に近い南部の内田にあります。表門を入ると、正面に主屋、右に中門、左は管理事務所になっています。主屋の後ろに文庫蔵、その背後に茶室、隠居屋、奥蔵があります。主屋、表門及び左右長屋、中門、文庫蔵、隠居屋、奥蔵が国の重要文化財に指定されています。
 馬場家の祖先は、武田24将の1人馬場美濃守信春の縁の者であったそうです。天正10年(1682)に武田氏が滅亡するとここに住み着き、開墾開発し、この住宅の前身を建てました。
 馬場家は屋号を「古屋敷」といい、江戸時代には広大な田畑を所有していました。中門は江戸時代、高島藩主・諏訪氏が馬場家を訪れたときのみ開かれた門です。藩主とも親密な関係があり、特別な地位に置かれていました。
 平成4年(1992)、馬場家より屋敷地の西半分と、主屋などが松本市に寄贈され、市が復元修理工事を行いました。工事中に明治28年(1895)の屋敷家相図が発見され、それを基に囲炉裏など細部を復元しました。平成9年(1997)に松本市立博物館の附属施設として開館し公開されました。

 国指定重要文化財に指定され馬場家主屋は嘉永4年(1851)に建てられました。桁行18.8m、梁間16.4m、一部2階、切妻造り、妻入、鉄板葺き、一部板葺きで、面積は310.3平方mです。土間の上は突き抜けになっており、部屋には全て天井板があり、欄間や戸には彫刻が施されたり、絵が描かれています。
馬場家主屋
 馬場家住宅の表門及び左右長屋は安政6年(1859)に建てられています。桁行19.9m、梁間3.7m、切妻造り、中央部切り上げ、桟瓦葺きで、左右に屋根塀があります。平成8年(1996)に国指定重要文化財に指定されています。
表門及び左右長屋
 馬場家住宅の中門は安政6年(1859)に建てられました。桟瓦葺きの3間1戸の薬医門で、左右に屋根塀があります。江戸時代、高島藩主・諏訪氏が馬場家を訪れたときのみ開かれました。平成8年(1996)に国指定重要文化財に指定されています。
馬場家住宅中門



大宮熱田神社
おおみやあつたじんじゃ
長野県松本市梓川梓4419
Tel 0263-78-2040


 大宮熱田神社は創建年代は明らかではありませんが古くから西松本地方の産土神(うぶすながみ)として人々から崇敬されてきました。毎年4月29日に行われる例祭では古式ゆかしい獅子舞が奉納され賑わいます。
 境内にあるモミの木は目通り周囲6.3m、高さ43mの巨木で長野県内最大級のモミとして昭和37年(1962)に長野県の天然記念物に指定されています。うっそうと茂る老樹の中、たくさんの摂社、燈篭、石仏が並び、参道の正面には神楽殿、拝殿と続いています。
 大宮熱田神社は、旧県社で梓川の水の守護神として本神山(男体山)山頂(1283m)に梓水大神を祭神として祀ったのが始まりとされています。信仰が広がると参拝に便が良い現在地に移され、熱田大神や天照大神、八幡大神などと合祀し、現在に至っています。
 拝殿の後ろに建つ大宮熱田神社本殿は中世の豪族、西牧氏の氏神として室町時代の後期に建てられました。一間社の流造り、柿葺きで、向拝柱が円柱になっているのが大きな特徴です。蟇股や懸魚などの彫刻にも当時の手法をよく残しています。
大宮熱田神社本殿
 母屋から庇までの丸柱が土台の上に立っています。木鼻が多く採り入れられ、妻側の組物も出組にしています。向拝の柱の上にある桁を3本としているところなに斬新さがでています。大宮熱田神社本殿は昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定されています。
大宮熱田神社本殿
 また大宮熱田神社の摂社若宮八幡宮本殿も同じ時に、国の重要文化財に指定されています。室町時代の文明年間(1469-1486)の建立と推察されています。柿葺きで一間社流見世棚造りです。浜縁が母屋の地長押(ちなげし)まで上がっています。
大宮熱田神社拝殿


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