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信州長野の旅と歴史
大北地方の旅    大町・白馬・黒部

神明社
しんめいしゃ
長野県北安曇郡白馬村神城字大宮13166
Tel 0261-72-7100 白馬村観光局


 神明社の創建は不詳ですが弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(県宝)が現存しています。古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心となっています。神明社の東の小山の上には沢渡氏によって築かれた三日市場城がありました。沢渡氏は仁科氏の庶流の、早期に分流した一族で、応永7年(1400)大塔合戦の際、沢渡五郎の名が残されています。
 天文14年(1545)頃、沢渡兵部盛方がこの地方の領主となっています。元亀元年(1570)に武田氏に従って駿河国花沢城を攻め討死したといわれています。天正10年(1582)、沢渡盛忠の時、武田氏が滅亡し、その後は松本城に復帰した小笠原貞慶に仕えたそうです。
 神明社は沢渡氏から崇敬され、天正16年(1588)には現在の本殿や相殿の諏訪社などの社殿を造営しています。この本殿と相殿は国の重要文化財に指定されています。また建武年間(1334-1338)に造られた大和国助次作の太刀は国重要美術品に認定されています。

 神明社本殿は、棟札によって天正16年(1588)沢渡九八郎盛忠と牛乗父子により造営されました。桁行3.53尺、梁間5.54尺の一間社切妻見世棚造り、板葺きです。室町時代に建てられた数少ない神社本殿建築で昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定されました。
神明社本殿
 神明社相殿の諏訪社は桁行3.48尺、梁間26尺の一間社流見世棚造り、厚板葺きです。昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定されました。
神明社相殿



飯森神社
いいもりじんじゃ
長野県北安曇郡白馬村大字神城字宮ノ上27346
Tel 0261-72-7100 白馬村観光局


 飯森神社は塩の道(千国街道)沿にあります。祭神が水神様であることから、古来より雨乞い、水乞いの神として近郷の人々から崇敬を集めてきました。
 八方尾根の八方池に住んでいた大蛇が人里にて危害を加えたため奥宮を建てて守護神にしたそうです。八方池畔に現在でも奥宮が建てられています。
 飯森神社の創建は永徳年間(1381-1384)と伝えられています。付近周辺住民から信仰され、中世には領主だった飯森氏から崇敬されました。境内近くに飯森神社石仏群など民間信仰の遺構があります。



切久保諏訪神社
きりくぼすわじんじゃ
長野県北安曇郡白馬村大字北城字大林12327
Tel 0261-72-7100 白馬村観光局


 霧降宮(きりふりのみや)切久保諏訪神社は白馬岩岳スキー場近くに建つ切久保地区の諏訪神社で、旧塩島村と新田村の産土神として祀られてきています。千国庄ができた鎌倉時代初期に諏訪大社下社の分霊を勧請したといわれています。
 鳥居をくぐり古めかしい丸い橋を渡ると、石段の上に社殿が建てられています。切妻造りの拝殿の後ろには覆屋があり本殿が入っています。横には竈神社と祖霊社があります。
 現在の本殿は明暦4年(1658)に再建されたもので三間社流造り、こけら葺きということです。大町の宮大工の金原周防定兼と金原の弟子の横田喜平次が棟梁として建立しています。獣が口を開けたような形の木鼻が特徴だそうです。



青鬼神社
あおにじんじゃ
長野県北安曇郡白馬村大字北城字善鬼堂17446
Tel 0261-72-7100 白馬村観光局


 青鬼神社は青鬼集落の鎮守で、集落の西側の高台に鎮座しています。青鬼神社の創始は大同年間(806-809)と伝えられ、現存する本殿は明治26年(1893)に再建されたものです。覆屋は、明治中期に造られたようです。
 青鬼神社の祭神は、善鬼大明神(お善鬼様)で、岩戸山の山腹の岩屋に奥の院として祀られていました。安和2年(968)、この場所に前宮として創建されたそうです。明治15年(1882)火災により焼失しました。明治19年(1886)には青鬼神社と改名されました。
 ここでは白馬村指定無形文化財の火揉みの神事、灯籠揃えなどが行われ、古い伝統を今に伝えています。祭典時には、花火が打ち上げられます。神社には、打ち上げ用の竹筒が残っています。戦前は、火薬の調合まで村人が行っていたそうです。5月、11月に春祭、秋祭も行われています。
 白馬村青鬼地区は「重要伝統的建造物群保存地区」の選定されています。主屋は江戸時代後期から明治後期にかけて建築された茅葺き(現在は鉄板被覆)の大型のものであり14戸が現存しています。集落東側の水田は石垣を伴った棚田を形成し「日本の棚田百選」に認定されています。



長谷寺
ちょうこくじ
長野県北安曇郡白馬村神城飯森25426
Tel 0261-75-2028


 長谷寺は千国(ちくに)街道が通る飯森集落にある曹洞宗の古刹です。創建は明徳2年(1391)といわれ、大永6年(1526)領主の飯森日向守盛春の内室光姫によって中興再建されました。
 文政3年(1820)に建てられた重厚な山門を入ると、天和2年(1682)に再建された本堂、寛政11年(1799)に建てられた庫裏、安政5年(1858)に建てられた宝庫などの禅宗様式の伽羅が整然と建立されています。
 本堂、庫裏、山門は白馬村の文化財に指定されていて、樹齢500年を越える杉並木は白馬村の天然記念物に指定されています。本堂の裏にある庭園は名園といわれ白馬村の名勝に指定されています。



貞麟寺
ていりんじ
長野県北安曇郡白馬村神城沢渡6482
Tel 0261-75-2620


 祥雲山貞麟寺は弘治2年(1556)に創建された曹洞宗の古刹です。本尊は聖観世音菩薩の坐像です。貞麟寺のシダレザクラが満開になる頃、境内周辺一帯には白馬村の村花であるカタクリも見頃になります。
 貞麟寺の本堂の前には、国の天然記念物に指定された、樹齢400年、樹周5メートル、樹高16メートルの、シダレザクラがあります。信濃町平岡の開貞桜と並ぶシダレザクラです。エドヒガンの枝変わり種で、毎年4月下旬から5月上旬に全国でも珍しい白桜と桃色桜がみられます。桜の幹は時の流れを感じさせる巨木です。
 裏山の斜面には、カタクリ、ウスバサイシンの群落があります。カタクリはユリ科の多年草で北日本の山地に群生する野草です。昔はこの鱗茎から抽出したでんぷんを片栗粉として使用したそうです。



霊松寺
れいしょうじ
長野県大町市山田町6665
Tel 0261-22-0377


 功徳林大洞山霊松寺は、応永11年(1404)に、仁科盛忠が招いた實峰良秀禅師により開かれた長野県で最古の曹洞宗の古刹です。大本山總持寺からは、信濃国初開の道場という称号を得て、明治元年まで10人の総持寺の住職を輩出しています。
 霊松寺は仁科家累代の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しました。永禄4年(1561)仁科盛政は武田信玄の謀略により甲州にて切腹。信玄は五男信盛に仁科家の跡目を継がせました。
 永禄5年(1562)、信盛は織田信忠により高遠で滅ぼされ、5百年におよぶ仁科家は滅亡しました。霊松寺は、織田・豊臣政権下に寺禄を失い荒廃しました。
 江戸時代に入ると松本藩主に返り咲いた小笠原貞慶から寺領を寄進され、正保4年(1647)には3代将軍徳川家光より10石の朱印状を賜っています。弘化4年(1847) 善光寺地震により七堂伽藍すべて倒壊炎上しましたが、嘉永年間(1848-1854)に再建されました。

 現在の山門は嘉永5年(1852)に松川村の観松院の山門として建てられ、明治11年(1878)に霊松寺に移築された門です。3間3戸、入母屋、茅葺きの総ケヤキ造りの八脚楼門形式の門です。
霊松寺山門
 山門には彫刻が数多く施されています。龍、唐獅子、獏、海馬、鳳凰、鶴、鷹、水鳥、牡丹、菊、紅葉、仙人、十二支など、多彩な題材をもちいています。平成5年(1993)に長野県の県宝に指定されています。山門の前には八徳水と呼ばれる名水が湧いています。
霊松寺山門



平林家住宅
ひらばやしけじゅうたく
長野県大町市大町八日町2572
Tel 0261-22-4018 塩の道博物館


 平林家住宅は千国(ちくに)街道沿いに残る数少ない古い住宅です。現在は塩の道博物館として公開、保存されていて、塩の道に関する資料や家具調度類を展示しています。
 平林家は江戸時代、庄屋で塩問屋を営んでいました。主屋は江戸時代に建てられた木造2階建て、塗屋造り、切妻、桟瓦葺き、平入りの建物です。1階の下屋は大きく張り出し、腰壁は海鼠壁、入り口部分の屋根を切妻にすることで正面性を強調しています。
 千国街道は塩、海産物や米、麻など物資往来の街道でした。そのため大町の宿場には本陣がなく、塩、生糸の問屋や、宿屋が軒を並べていた集荷場だったようです。毎年2月11日に飴市があります。平林家前に市神様が祀られ、周りに市がたちました。縁起をはじめ塩俵をかたどった飴、福助飴などを売って人々を集めてきました。



旧中村家住宅
きゅうなかむらけじゅうたく
長野県大町市美麻17668−1
Tel 0261-29-2580 旧中村家住宅管理事務所


 旧中村家住宅は元禄11年(1698)に建てられた民家で建立年代が明らかなものとしては、長野県内で最古のもので、東日本でも最も古い民家のひとつです。
 中村家は江戸初期の慶長19年(1614)に上方からここに来て帰農定住したそうです。初代彦右衛門は慶安3年(1650)の松本藩の検地で持高12石5斗の本百姓になっています。2代目彦右衛門は青具村の組頭になり、3代目佐五右衛門は正徳2年(1712)庄屋になっています。

 現在の主屋は近在の大工の手で建築され、元禄11年(1698)に建てられました。間口14間、奥行6間で建坪は84坪もあり、屋根は茅葺き、寄棟造りの直屋です。江戸時代前期としては、規模も大きく、古い様式を残しています。上級農家の遺構として貴重な存在で平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されています。
旧中村家主屋
 土蔵は安永9年(1790)に建てられたもので2階建て土蔵造りです。間口6間、奥行4間、切妻造り、茅葺きです。建立年代が明確な土蔵の中で長野県内でも古いものです。上級農家の遺構として貴重な存在で平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されています。
旧中村家土蔵



仁科神明宮
にしなしんめいぐう
長野県大町市社宮本1159
Tel 0261-62-9168


 仁科神明宮は仁科66郷の総社で、本殿は江戸時代初期に建築された檜皮葺の神社です。神明造の建築物としては、唯一の国宝に指定されています。
 垂仁天皇の時代、仁品王(にしなのきみ)の創建といわれ、白雉6年(654)仏崎の別当高根伊勢守平盛国が伊勢神宮の外宮を勧請したのが始まりと伝えられています。
 平安時代の終わりごろ、伊勢神宮の庄園の仁科御厨の鎮護のため、この地方の支配者であった仁科氏によって勧請されたともいわれています。この場合、御厨が建立した永承3年(1048)頃に創建されたと思われます。
 平維茂の子孫といわれる仁科氏は鎌倉時代にこの地方の領主でした。そのため仁科神明宮にたいして崇敬が篤く、仁科盛遠は社領10石と平家古伝の名刀鵜丸を奉納して武運長久を祈願しました。
 天正10年(1582)、信玄の5男で仁科家を継いだ仁科五郎信盛が織田信忠により高遠で滅ぼされ、5百年におよぶ仁科家は滅亡しました。その後領主となった小笠原、松平、石川、堀田、戸田の諸氏も祈願所として厚く庇護しました。
 仁科神明宮の社地は約2万平方mで、国宝の本殿、中門をはじめ、拝殿、神楽殿、宝蔵などを備えています。神明造りの本殿は20年ごとに遷宮(せんぐう)つまり式年造営(新築)がされてきました。しかし、寛永13年(1637)以降は行われず改修、修繕程度となっています。そのため神明造りでは日本最古の建築物となったのです。

 仁科神明宮本殿は釣屋とともに国宝です。寛永13年(1636)に式年造替された建物です。桁行3間、梁間2間、軒高6.6m、棟木の長さ8.3mの日本最古の神明造りの建物です。屋根は檜皮葺で棟木の上には巴紋を付けた鰹木6本が置かれています。神明造りの原型式を残していて、室町時代の様式を伝えています。
仁科神明宮本殿
 仁科神明宮中門は釣屋とともに国宝です。本殿と同じ寛永13年(1636)に式年造替されました。御門屋といい、四脚門、単層で屋根は切妻造り、檜皮葺きです。 本殿同様に、破風板が延びて千木となり、鞭掛が4本付いています。
仁科神明宮中門
 仁科神明宮の社叢は県の天然記念物に指定されています。江戸時代の終わり頃、江戸城本丸普請のために、御神木を伐採しようとしたとき、近所の人々が団結して反対運動を起こし、幕府に直訴してこの森を守りました。樹齢300年を超える大杉をはじめ、スギ、ヒノキなどがうっそうと茂っています。
仁科神明宮の社叢



盛蓮寺
じょうれんじ
長野県大町市社字曽根原2937
Tel 0261-22-7855


 源華山盛蓮寺は、神宮寺がある宮本集落の北隣にある曽根原集落の西のはずれにある真言宗のお寺です。元は仁科氏と関係の深かった高野山遍照光院の末寺でしたが、今は智積院の末寺となっています。
 昔は盛蓮寺は東方山中の字堂平にありましたが、後に閏田東方山中の字山寺に移されました。七堂伽藍を備えた大寺として栄え、清滝山盛蓮寺と号していました。鎌倉時代中期に領主の仁科盛遠により現在地に移され、以来仁科氏の祈願寺となりました。

 盛蓮寺観音堂は境内の東側のやや高い位置に西向きに建てられています。もとは少し北寄りにありましたが、昭和40年の解体修理のとき、位置を移したそうです。本尊は木像如意輪観音座像で大町市指定有形文化財です。観音堂は国の重要文化財に指定されています。
盛蓮寺観音堂
 観音堂は文明2年(1470)に建てられたもので、三間四面、寄棟造り、茅葺形銅板葺きです。堂全体が阿弥陀堂形式で鎌倉時代から室町時代の特徴を持つ、松本平最古の寺院建築です。
盛蓮寺観音堂



若一王子神社
にゃくいちおうじじんじゃ
長野県大町市大町俵町2097
Tel 0261-22-1626


 若一王子神社の創建は垂仁天皇の時代に国主の仁品王(にしなのきみ)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を奉祀し、一祠を建てたのが始まりと伝えられています。その後、仁品王の後裔の仁科氏が白鳳期に、仁品王と妹耶姫(いもやひめ)を合祀しました。
 鎌倉時代の承久2年(1220)、仁科次郎盛遠が紀伊国の熊野神社から若一王子神を勧請し、永和3年(1377)には仁科盛国が本殿を再建し、弘治2年(1556)にも仁科盛康によって再建されました。
 天正10年(1582)、信玄の5男で仁科家を継いだ仁科五郎信盛が織田信忠により高遠で滅ぼされ、5百年におよぶ仁科家は滅亡しました。江戸時代に入ると松本藩から庇護され承応3年(1654)に社殿の大改修が行われ、明暦元年(1655)には幕府神領として2石5斗4合を与えられています。
 承応3年(1654)に行われた修理では、大町市の棟梁・金原周防守定兼によってほとんどが解体修理されたそうです。屋根の破風に着けられた鬼面や向拝上部にある組物、彩色が多く用いられている点など、非常に珍しく特色のある社殿といわれている。
 若一王子神社には古くからの神仏混合の形が残されています。拝殿、神楽殿、額殿、松尾社、鹿島社などがあり、神仏分離令後も境内には観音堂や三重塔などが残されています。また、毎年7月下旬に古式豊かな流鏑馬神事が行われます。承久3年(1211)、仁科次郎盛遠が後鳥羽上皇の院宣を奉じ、将兵を集めるため社前で行なったのが始まりといわれています。

 若一王子神社の観音堂は宝永3年(1706)社記 大工 金原又七・作助によって建てられました。方三間、寄棟造り、草葺き、一間向拝付きで、大町市の文化財に指定されています。中には厨子が納められており、木鼻彫刻や蟇股には古い地方様式の名残りがあるそうです。
若一王子神社観音堂
 若一王子神社の三重塔は、県宝に指定されており、宝永8年(1711)、金原又七・作助により建立されました。方三間、柿葺きで初重の蟇股に施された彫刻は、方位に合わせて十二支の動物が表されています。二重垂木に三手先の肘木が迫り出しています。純粋な和様建築で素木造りの重厚な建築です。
若一王子神社三重塔
 本殿は弘治2年(1556)に棟梁の金原周防守定兼・五左衛門によって再建されたものです。一間社、隅木入春日造りの檜皮葺きです。室町時代末期の神社本殿建築の遺構として貴重な存在で昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。
若一王子神社本殿
 若一王子神社社叢(しゃそう)が長野県指定天然記念物に指定されています。樹齢400年の杉の神木のほか、400本近くの大小の杉や桧などの立木がうっそうと茂っています。
若一王子神社社叢



黒4ダム
くろよんだむ
 関西電力黒部川第4発電所(1963年完成)という日本最大の高さ(186m)のアーチ式ダムです。黒部ダム、黒4ダムとも呼ばれています。平成15年6月には黒部ダム建設40周年を記念して、高さ186mから放される観光放水が見られる新展望広場がオープンしました。


黒部湖
 7年の歳月をかけて昭和38年に完成。その工事の困難さは有名で『黒部の太陽』という名で映画化されています。ダム周辺は、国立公園に指定され、北アルプスの大自然の中に浮かぶ巨大な池のようです。

 3000m級の高峰が連なる日本の屋根・北アルプスを貫き、長野県の信濃大町から、日本海側に通じる立山黒部アルペンルート。この世界有数の山岳観光ルートの中心が黒4ダムなのです。


 長野県の扇沢からトロリーバスで黒4ダムまでこれます。扇沢からダムまではトンネルの中を走りますが、このトンネルはダム建設時に物資の運搬等に用いられていたものだそうです。 
 黒部ダムの壮大さはさることながら、それを囲むように聳え立つ後立山連峰のすばらしさは、口では言い表せません。
 黒部ダム周辺は中部山岳国立公園に指定されています。特別天然記念物のニホンカモシカ、雷鳥などが住み、高山植物の宝庫になっています。


黒部平
 立山黒部アルペンルートは長野県信濃大町から富山市までの約100kmを結ぶ世界的な山岳観光ルートです。黒部湖駅から日本唯一の全線地下式黒部ケーブルカーで約5分で標高1.828mの黒部平に出ることが出来ます。
 立山と後立山連峰の間を流れ富山湾に注ぐ黒部川は、峡谷の規模が大きく、激流となって流れ下る渓谷の随所に断崖や瀑布があり、昔から人間を近づけなかったところでした。
 昭和31年に関西電力が7年の歳月と513億円の巨費を投じ、延べ1000万人の手を使って黒4ダムを造ってからは人跡未踏の場所に美しいエメラルドグリーンの湖を見ることが出来るようになりました。


大観峰
 黒部平からロープウェイで標高2.316mの大観峰に行くことが出来ます。立山東壁の斜度40度もの急斜面に立つ大観峰には400トン余のロープウェイの重量を支える堅ろうな建物が建てられています。
 屋上展望台からは後立山連峰・黒部湖をはじめ、穂高岳・槍ヶ岳などのアルプス連峰が一望できます。
 大観峰は途中に一本も支柱がない我が国唯一のワンスパンの立山ロープウェイの終点です。眼前に、標高3015mの大汝(おおなんじ)山をはじめとする立山連峰の高い峰々、振り返れば後立山連峰や黒部湖も一望に収められる場所なのです。


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