直線上に配置
信州長野の旅と歴史
信州南信の旅    駒ヶ根周辺・千畳敷

光前寺
こうぜんじ
長野県駒ヶ根市赤穂29
Tel 0265-83-2736


 信濃5大寺の1つに数えられる駒ヶ根の宝積山光前寺は、信濃における天台宗の大寺でした。戸隠山、善光寺、更級八幡神宮寺、佐久津金寺、光前寺が信濃5大寺でした。寺領が大きかったばかりでなく学問寺として、天台密教の修業地として重要なところでした。
 光前寺の歴史は古く、開山は貞観2年(860)にさかのぼります。不動明王を本尊として、本聖上人により開基されました。また霊犬早太郎の伝説が伝えられています。
 本聖上人は慈覚大師(円仁)の弟子でした。古くは武田家、羽柴家の武将の保護を受け、特に徳川幕府からは、地方寺院としては破格の朱印60石と、10万石の大名格を与えられ、学問寺として隆盛をきわめました。
 樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内で、今でも10余棟の堂塔を備えた長野県屈指の大寺です。南信州随一の祈願霊場として広い信仰を集めています。
 本堂の近くに、南信州では唯一の三重の塔が建立されています。その南側に小原氏一族の墓がひっそりと残っています。その中に万延元年(1860)に建てられた「小原元祖一千年供養塔」の碑があります。自分たちの先祖は比叡山のふもとの京都の大原の里から来て、光前寺建立のためにこの地に移り村を開いたそうです。

霊犬早太郎伝説
 680年前、光前寺に早太郎という大変強い山犬が飼われていました。その頃遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社で、毎年祭の夜に一人の子女を神前に人身御供として供える悲しい習わしが続けられていました。
 この悪習を救おうと僧の一実坊弁存は、神仏に祈願し祭の様子をさぐり、怪物が信州の早太郎を恐れていることを知りました。弁存は光前寺で早太郎を探し出し借りて戻りました。子女の身代りとなった早太郎の力によって怪物(老ヒヒ)は退治され、村の災難はなくなったということです。
 一実坊弁存はこの報恩の為に大般若経を書写し、天神社から光前寺に奉納されたそうです。以来早太郎こそまさに不動明王の化身であり、災難除、厄除の霊犬なりと広く信仰を集めたのでした。



駒ヶ根高原美術館
こまがねこうげんびじゅつかん
長野県駒ヶ根市赤穂88
Tel 0265-83-5100


 光前寺近くに建つ駒ヶ根高原美術館は、藤原新也ら現在活躍中の写真家や、池田満寿夫、ロダン、ルオー、ゴヤなど、国内外の巨匠の作品、約2700点を収蔵展示する美術館です。
 本館と別館をつなぐ渡り廊下から南アルプス、中央アルプスが素晴らしい山並みを見せてくれます。また県下最大級のミュージアムショップも併設されています。



旧竹村家住宅
きゅうたけむらけじゅうたく
長野県駒ヶ根市赤穂26
Tel 0265-83-5011 竹村家管理事務所


 旧竹村家住宅は旧駒ヶ根市役所庁舎である郷土館とともに、駒ヶ根高原の大沼湖畔に建てられています。この住宅は、駒ヶ根市中沢大津渡(おんど)にありましたが、国の重要文化財に指定された後、郷土の文化遺産をよりよく保存するために、駒ヶ根市が譲り受け、昭和43年に移築したものです。
 竹村家は江戸時代初期、大田切川のほとり、当時の春日街道に面して家を構えていました。豪農であり、街道の荷物の取次ぎを行なっていたそうです。大水害により駒ヶ根市の中沢に移り住み、幕末まで代々名主を務めていました。
 主屋は桁行22.9m、梁間11m、1重、寄棟造り、茅葺きです。建立年代は明らかではありませんが、貞享元年(1684)頃ではないかとみられています。昭和41年(1966)、長屋門及び下便所とともに国の重要文化財に指定されています。
 主屋は名主だけに許された式台を備え、外観も堂々とし、東日本の民家としては最大級といわれています。江戸末期になると伊那地方の名主などの家は、板葺きの本棟(ほんむね)造りに変わり、このように大きい茅葺きの家は造られなくなりました。
 旧竹村家住宅はこの地方の江戸中期上層農家の典型として、重要な存在です。正面大戸口から入ると広い土間とその上手に板敷の台所があります。土間と台所の間には間仕切もありません。表側には、「下のま」、「上座敷」、裏側には家族の「ねま」などがあります。



駒ヶ根市郷土館
こまがねしきょうどかん
長野県駒ヶ根市赤穂25−18
Tel 0265-83-5011 竹村家管理事務所


 駒ヶ根市郷土館は旧竹村家住宅とともに、駒ヶ根高原の大沼湖畔に建てられています。県内にも数少ない大正期の洋風建築で、駒ヶ根市役所の旧庁舎です。
 昭和46年(1971)に庁舎新築に伴い、庁舎の代表的な部分を現在地に移築し、郷土館として保存するとともに、駒ヶ根の昔の農具や市内で出土した土器、動物の標本、昔の時計や電話などを展示しています。
 旧庁舎は大正11年(1922)、旧赤穂村役場として、地元出身の伊藤文四郎工学博士の設計により建築されました。開拓期の米国で発達した近世コロニアル様式を取り入れ、内部の装飾は近世ルネッサンス式を加えました。村の総予算が19万円の時に、工費は約5.4万円だったそうです。
 駒ヶ根市郷土館は木造2階建、カラー鉄板、瓦棒葺き、近世コロニアル形式の建物で、延面積410.113平方mです。昭和46年(1971)に移築され、昭和51年(1976)に駒ヶ根市の有形文化財に指定されています。



千畳敷カール
せんじょうじきかーる
長野県駒ヶ根市赤穂1
Tel 0265-83-3844 ホテル千畳敷


 中央アルプスの宝剣岳(2931m)の頂上直下に広がる千畳敷カールです。氷河期に氷河でえぐられてできた大壁面をカールといいます。
 雲上の世界に広がる千畳敷カールは絶景です。千畳敷カールへは麓のしらび平駅から駒ヶ岳ロープウェイで7分30秒で行くことが出来ます。 
 中央アルプス駒ケ岳ロープウェイはわが国最初の試みとして、駒ヶ岳目指して架けられた高山ロープウェイなのです。高低差が950mあることと、終点の千畳敷駅の標高が2611.5mと高いことの2つが日本一になっています。平成10年(1998)にはリニューアルしています。
 距離2335.5mを秒速7mという高速で、61人乗りゴンドラが上っていき、7分30秒で、終点千畳敷駅(標高2,611.5m)まで運んでくれます。氷河によって出来た千畳敷カールを散策すると様々な高山植物と出会うことが出来ます。
 駒ケ岳は標高2956m、眺望絶佳、真夏の別天地、富士山をはじめ南アルプス連峰、御岳山、乗鞍岳、北アルプスを一望でき、また、高山植物の宝庫として有名です。
 千畳敷カールは2万年も前の氷河期に、氷で削られたカール地形の日本を代表するところです。なんとここに通年営業しているホテル千畳敷が建っています。
 ホテル千畳敷は、ロープウェイの発着場として日本最高地駅を兼ねています。千畳敷スキー場は春スキーのメッカにもなっています。
  日本一高い場所に建つホテル千畳敷で、雪の中、結婚式を挙げているのをテレビで見たことがあります。
 元旦には、富士山の真上からの御来光を見ることができるそうです。カールは標高2600m周辺に広がり、夏は高山植物の宝庫となり、秋にはナナカマドやダケカンバなどが彩りをあたえてくれるそうです。
 千畳敷カールの底に咲く花コバイケイソウは数年に一度しか咲かないという大変めずらしい花だそうです。毎年咲くと地中の養分をとってしまうからだといわれています。
 ロープウェイ駅の近くには猿が生息していて木から木へ動いていくのを見ることができました。


 駒ヶ根といえばソースかつ丼が有名です。昭和の始め頃からあったそうです。



竹ノ内家住宅
たけのうちけじゅうたく
長野県下伊那郡高森町吉田1987−1
Tel 0265-35-8211 高森町教育委員会


 竹ノ内家住宅は棟札により寛政11年(1799)に建築された本棟造の民家です。伊那谷の住宅を知る上で重要な建物として、昭和48年(1973)に国の重要文化財に指定されています。
 竹ノ内家住宅は桁行8間、梁間7間半、切妻造り、妻入りの大きな建物です。正面は梁間全巾にわたり大梁を通し、妻壁には小屋束と貫を見せています。本棟造りの意匠が整備されてゆく時期の例として価値があります。
 2階を迫り出して1階に座敷表側に縁をつけない土庇をとる古い形式の民家です。江戸時代中期までの本棟造に比べ、間取りでは居室の分化が進んでいます。構造では屋根裏の空間を広くして養蚕に使用するなど実用な工夫がみられます。



旧下市田学校
しもいちだがっこう
長野県下伊那郡高森町下市田1043−1
Tel 0265-35-8211


 旧下市田学校の校舎は高森町の下市田保育園の隣りにあります。明治19年(1886)に焼失したため、明治21年(1888)に再建された校舎です。
 木造2階建て、寄棟造り、桟瓦葺きの明治時代のモダンな建物です。正面玄関は大きく張り出し、洋風建築に唐破風を配し、2階に勾覧をつけています。
 屋根や海鼠壁など和風を基調としていますが、縦長の窓や玄関上部のベランダなど洋風建築も取り入れた和洋折衷の擬洋風建築となっています。玄関は学校の顔として、当時名工の誉れ高かった木曽出身の宮大工・坂田亀吉が施工しました。
 当初は萩山神社に隣接する敷地に建てられていましたが明治44年(1911)に現在地に移築されました。この時代の校舎は、殆どが取り壊されて現存するものは数少なく、貴重な遺構で、昭和56年(1981)に高森町の有形文化財に指定されています。



福徳寺
ふくとくじ
長野県下伊那郡大鹿村大河原上蔵(わぞ)
Tel 0265-39-2100 大鹿村教育委員会


 医王山福徳寺の本堂は、長野県内最古の木造建築で、田んぼの中に本堂だけがポツリと建っています。平治2年(1160)に建立と仏像の台座に墨書きがありましたが、建立した施主も不明であることから鎌倉時代の建築物とみられています。
 本堂は阿弥陀堂形式で、桁行3間、梁間3間、一重入母屋造り、こけら葺きの簡素な建物です。ゆるやかな曲線の屋根や、正面両脇と側面の独特な形式の片引戸は趣が感じられます。福徳寺の本堂は昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されています。
 堂内には阿弥陀如来像、薬師如来像、毘沙門天、観世音菩薩の4体の仏像が安置されています。福徳寺本堂の扉を昼間に開けると災害が起こると信じられており、天保10年(1839)に老中・水野忠邦が浜松へ移設しようとしましたが村民に反対され断念したという歴史があります。



松下家住宅
まつしたけじゅうたく
長野県下伊那郡大鹿村大河原引ノ田
Tel 0265-39-2100 大鹿村教育委員会


 松下家住宅はかなり山奥の高い引ノ田という小さな部落にあります。松下家は名主組頭の村役を務めた旧家です。現在の松下家住宅は文政3年(1820)に建てられた建物で、豪農の住居として現在まで旧態を良くとどめています。
 主屋は西に面し、桁行14.6m、梁間15.8m、切妻造り、妻入の本棟造りの大型民家です。内部は北側に土間を取り、桁行3列に12部屋をならべています。全体に壁が少なく、裏側にも床付きの座敷があり、生活の中心となっている居間が建物の裏側に取られています。本棟造りの中でも進歩したものとなっています。
 14.6mの8間通しの大梁は非常に長大で家の端から端まで一本で通しています。また馬屋を含む北側は軸の部分が別構造になっています。このような構造は長野県の南西部に多く見られます。主屋は国の重要文化財に指定されています。
 また母屋の北側にある土蔵は明和9年(1772)の建築で主屋より古い建物です。豪農の屋敷構えを伝えていて母屋とともに国の重要文化財に指定されています。



諏訪社(金野諏訪社)
すわしゃ(きんのすわしゃ)
長野県下伊那郡泰阜村字家ノ上566
Tel 0260-26-2111 泰阜村振興課


 諏訪社は旧金野村にあり、この地域の産土神です。武田氏の武士団・前沢若狭守が武運長久と子孫繁栄を祈願するために創建したと伝えられています。諏訪社本殿と、若宮八幡宮本殿の2社を祀っています。
 覆屋の中に建つ2つの社殿は、向かって左側が板葺き、一間社流造りの諏訪社本殿です。右側が若宮八幡宮で、板葺き、2間社流造りとなっています。ここには元亀4年(1573)の棟札が残されています。2社とも形式手法が酷似していることから、同じ室町時代の建築とみられます。
 2社殿とも柱は全て角柱で、頭貫や身捨組物を使用していません。装飾も少なく簡素な造りとなっています。縁を設けず、棚板と浜床を構える形式にも特色があり、この地方の鎮守社の姿を示しています。
 全体に風蝕がなく、保存状態が良好で、室町時代の神社2社がそろって残されている価値は高く、諏訪社本殿、若宮八幡社本殿は覆屋附けで国の重要文化財に指定されています。



大山田神社
おおやまだじんじゃ
長野県下伊那郡下條村陽皐(ひさわ)4588−1
Tel 0260-27-1150 下條村教育委員会


 大山田神社は陽皐部落の上のうっそうとした杉に囲まれた中にあります。古代この辺り一帯は「菅野荒野」と呼ばれ、万葉集に歌われ、菅野朝臣真道と縁のある地だったそうです。
 創建は不明ですが、平安時代の延喜式神名帳に載る千年以上の歴史を持つ神社です。室町時代、領主下条氏はここに正八幡宮と諏訪明神宮を祀り一族の氏神としました。近郷の総鎮守としても崇拝厚く、下条氏7代目伊豆守家氏は京都より工匠吉村泉和守一門を招き社殿の造営をしました。
 この時に造られたのが現在の大山田神社の本殿で、国の重要文化財に指定されています。社殿は、この地方のほかの神社と同じように覆屋の前に迫り出すような長細い拝殿が設けられています。
 拝殿と一体化した覆屋の中には、3つの本殿があります。右から応神天皇社、真ん中に大山田神社の本殿、左に鎮西八郎為朝社が建てられています。本殿が納められている覆屋は、3社殿を納めるために横に長く造られていて、その前面を格子戸で仕切っています。
 応神天皇社は応神天皇を祀った八幡宮で、流造り、柿葺きの一間社です。鎮西八郎為朝社は鎮西八郎為朝を祀っており、同じく、流造り、柿葺きの一間社です。この2社は室町時代の貴重な遺構で、ともに国の重要文化財に指定されています。
 大山田神社の社叢は長野県自然100選の一つに選ばれています。数百年の老杉を初め杉桧の大木が繁っています。南限北限の植物が混在する貴重な場所で、「青木」の群生でも知られています。また樹齢800年、高さ45m、幹まわり7.1mの「大山田神社の大杉」は下條村の天然記念物に指定されています。
大山田神社の社叢



八幡神社(古城八幡社)
はちまんじんじゃ(ふるじょうはちまんしゃ)
長野県下伊那郡阿南町富草古城2158
Tel:0260-22-4055 阿南町役場振興課商工観光係


 八幡社は下条氏の初代頼氏が居城とした所でした。内部には珍しいことに八幡社本殿と摂社諏訪社本殿との二つが祀られています。室町時代、武田氏の一門・下条伊豆守源頼氏(みなもとのよりうじ)が甲斐の下条郷から大沢に入りここに城を築きました。
 その時に城の鎮守として、源氏の氏神である八幡社を勧請しました。6代康氏の時の、文明7年(1475)に手狭になったため、城は北の吉岡に移されました。この地は古城と名付け、重臣の佐々木帯刀が守りました。
 7代伊豆守家氏はここを拡張して八幡社本殿と、信州の地主神・諏訪明神を勧請して摂社諏訪社を、京都より工匠吉村泉和守一門を招き造営をしました。下條村の大山田神社に重要文化財の応神天皇社、鎮西八郎為朝社がありますが、家氏により同じ時代に造立されたものです。
 誉田別命を祀る八幡社本殿は桁行1間、梁間1間、流造り、柿葺きです。左に鎮座する諏訪社と構造的な違いはほとんどありません。組高欄、斗束、登高欄、蟇股が少し違う程度です。蟇股は2羽の鳩の透かし彫りになっています。八幡社本殿は国の重要文化財に指定されています。
八幡社本殿
 建御名方命を祀る摂社諏訪社本殿も桁行1間、梁間1間、流造造り、柿葺きです。建立されたのは永正3年(1506)頃と推定されています。蟇股は1羽の鳩と橘の彫刻になっています。摂社諏訪社本殿は八幡社本殿とともに国の重要文化財に指定されています。
摂社諏訪社



白山神社
はくさんじんじゃ
長野県木曽郡大桑村殿1755−1
Tel 0264-55-4566 大桑村観光協会


 白山神社は木曽川の殿集落から支流の小川沿いを北へ200m入った西岸山腹に建てられています。古くから大桑村の産土神(うぶすながみ)として信仰を集めてきています。
 白山神社の覆屋の中には、白山神社本殿が正面に鎮座しています。また左右には境内社の蔵王神社本殿、伊豆神社本殿、熊野神社本殿の4つの社殿が並んでいます。
 棟札によれば元寇4年(1334)、大工の七郎橘宗重により造立されていて、鎌倉時代の様式を良く残しています。いずれの社殿も一間社、流造造り、檜皮葺き(ひわだぶき)で見世棚造りとなっています。
 特に、猪の目懸魚の形、裏甲のない茅負、大面取りの柱など、鎌倉時代の技法が残されています。白山神社本殿には、扉に方立柱があり、垂木の配置を密にするなど、他の3社に比べ特別な仕様で入念な造りになっています。
 白山神社本殿、境内社の蔵王神社本殿、伊豆神社本殿、熊野神社本殿は長野県最古の鎌倉建築とされ、昭和12年(1937)に国の重要文化財(旧国宝)の指定を受けています。



定勝寺
じょうしょうじ
長野県木曽郡大桑村須原831−1
Tel 0264-55-3031


 浄戒山定勝寺は臨済宗妙心寺派の古刹で、中山道の須原宿の中にあります。木曽福島の興禅寺、長福寺と並ぶ、木曽三大寺の一つです。嘉慶年間(1387-1389)に木曾氏11代の右京太夫源親豊が祖先菩提のため一宇を建立し、初屋を勧請開山したのが始まりといわれています。
 文安3年(1446)、文禄5年(1596)など木曽川の氾濫で度々流失し、慶長3年(1598)、犬山城主石川備前守兵蔵光吉によって現在地に移転再興されました。鶴亀、蓬莱庭園やしだれ桜でも有名です。
 定勝寺の本堂は慶長3年(1598)に建立されています。桁行19m、梁間12.2m、一重、入母屋造り、銅板葺きで、仏壇、書院があり、ウグイス張りの廊下が残されています。昭和27年(1952)、国の重要文化財に指定されています。
定勝寺本堂
 定勝寺の庫裏は承応3年(1654)に建てられています。桁行21.9m、梁間14m、一重、切妻造り、銅板葺き、南面庇附です。大きな妻壁を正面に見せて庫裏全体が目立つように仕上げられています。定勝寺庫裏は昭和27年(1952)、国の重要文化財に指定されています。
定勝寺庫裏
 定勝寺の山門は万治4年(1661)に建てられています。桧皮葺きの四脚門で、切妻造りです。簡素で剛健な風格があります。定勝寺の山門も昭和27年(1952)、国の重要文化財に指定されています。
定勝寺山門


信州長野トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置