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信州長野の旅と歴史
長野の旅    飯山

白山神社
はくさんじんじゃ
長野県飯山市大字照岡桑名川
Tel 0269-62-3133 信州いいやま観光局


 飯山の北、飯山線の桑名川駅と上桑名川駅のちょうど中間辺りに飯山市立岡山小学校があります。その隣りに名立神社があり、山に通ずる細い道を登っていくと中腹あたりに白山神社があります。
 景色も良くない山の中に最近建てられた覆屋があるだけで神社らしい荘厳とした雰囲気などはありません。薄汚れた格子のガラスの中には小さな祠が鎮座しています。これが国の重要文化財に指定されている白山神社の本殿です。
 棟札によると、本殿は応永32年(1425) 大工の右衛門大夫入道沙弥道安小工弥太郎によって造立されています。一間社、隈木入り、春日造り、栃葺きで、長野県の北部では最古の神社建築です。
 桁行の寸法が約2尺ほどの小規模なもので土台の上に建てられています。向拝の頭貫は虹梁形になっていません。頭貫木鼻上に皿斗を置いて高さを調節しています。鯱鼻は全国でも10ヵ所の例があるだけという極めて珍しいものです。



高源院
こうげんいん
長野県飯山市大字豊田6356
Tel 0269-65-2202


 戸狩(とがり)スキー場の中に「あじさい寺」の別称を持つ三嶋山高源院があります。永仁3年(1295)尾崎城主・泉弥次郎朝衝が開基となり、権少僧都慶学法が開山した萬用山慈専院が高源院の始まりです。
 慈専院は真言密院でしたが、応永7年(1400)に尾崎城主・泉左近太夫重歳が米沢の東源寺3世の通巖正?(上に秋、下に鳥の漢字)禅師を招き曹洞宗に改宗開山し三嶋山興源院に改称、大永5年(1525)に「興」を「高」と改め、現寺号である高源院に改称しています。
 現在の本堂は寄棟、トタン板葺きで、享保4年(1718)に建てられています。山門は3間1戸の入母屋造り、金属板葺きで、天保元年(1830)の建立です。両側に仁王像が安置され、たくさんの彫刻が施されています。



健御名方富命彦神別神社
たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ
長野県飯山市大字豊田3681ー1
Tel 0269-62-3133 信州いいやま観光局


 健御名方富命彦神別神社は孝徳天皇の頃(645-654)の創建と伝えられています。大同年間(806-810)には県主田村義仁の祈願所となり、室町時代には付近一帯を支配した泉家一族の祈願所になっています。
 飯山城主代々の崇敬社として社運は栄え、明治6年に郷社に列し、明治13年(1880)、県社に昇格しています。昔は大宮諏訪社といわれ、祭神は諏訪大社と同じく健御名方富命です。
 社地は約3300平方mあり、戸狩地方の山腹に位置しています。本殿、拝殿のほか、石段の中ほどには、摂社として若宮八幡神社、水戸社が向き合って鎮座しています。
 若宮八幡神社本殿は覆屋の中にあります。室町時代中期に建てられた建物で一間社流造り、栃葺きです。室町時代中期に大工の武田杢之丞によって造られました。装飾はほとんど見られず、素木の簡素な社殿です。
若宮八幡神社
 柱の面は大きめなもので、すべて鉋で仕上げてあり、向拝や舟肘木、懸魚、破風、海老虹梁の形などに室町時代中期以降の様式が見られます。昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されています。
若宮八幡神社本殿
 健御名方富命彦神別神社の本殿の後方に、「五束の伊勢社」があります。江戸時代に、「お伊勢参り」が流行し、各地にできた伊勢講の名残りです。「今井の伊勢社」とともに、当時の伊勢信仰を知る貴重な石造文化財です。
五束の伊勢社
 五束太々神楽は健御名方富命彦神別神社に伝わる神楽です。舞う人が手に鈴や扇などを持って祈祷する採物神楽を主体とする出雲流神楽を伝承したものです。平成10年(1998)に長野県の無形民俗文化財に指定され、映画「阿弥陀堂だより」の中でも五束太々神楽が登場しています。
五束太々神楽



飯山城跡
いいやまじょうせき
長野県飯山市大字飯山2749
 Tel 0269-62-3133 飯山市観光協会


 飯山城は北信濃から越後に至る常盤牧一帯を領した豪族・泉氏の居城でした。戦国期には泉氏は鴨ヶ嶽城主の高梨氏の配下となりました。武田氏に攻められ城を追われた高梨氏は飯山城に退き、上杉謙信の庇護の下で、武田氏と対峙しました。
 永禄7年(1564)の第5次川中島合戦の際、越後の防御・信濃計略の前線基地として飯山城は上杉謙信によって本格的に築城されました。 天正6年(1578)謙信が死去すると御館の乱があり、景勝が跡目を継ぎ、飯山城は武田との和睦により武田氏に割譲されました。
 武田氏が滅亡すると織田信長の勢力下に入り家臣森長可が支配しました。本能寺の変が起こると長可は飯山城から撤退し再び上杉領となります。上杉景勝の家臣岩井信能が城代となり城の修築を行い、現在の飯山城の規模に拡張しました。
 慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ移封となった後、飯山城は石川光吉、森忠政らが支配し、その後、関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山氏らが城主になり、享保2年(1717)以後は本多氏が幕末まで治めました。
 慶応4年(1868)、旧幕府派が飯山城下に侵攻し真宗寺を本陣としました。飯山藩は対応に苦慮するうちに、新政府軍の松代藩兵が千曲川東岸に布陣し旧幕府軍を鎮圧しました。この際の兵火で飯山城下は燃え、城下の半分を失いました。

 飯山城には以前、15近くの門があったそうです。明治の解体の際に各地に売りさばき、一つも残っていませんでした。飯山地区の丸山家にあった門を譲り受け、依然あった「おたや大門」の近くに、現在の門を移築しています。
飯山城城門
 飯山城本丸には葵神社が建立されています。この神社は明治16年(1883)、最後の城主本多家の中興の祖本多広孝を祀ったものです。寛政9年に勧請し明治4年の廃藩置県まで74年間存在した「飯山城本丸四社(祭神は、加茂二柱神・春日四神・八幡神)」の跡地を継いだものと思われます。
葵神社
 飯山市は長野県スキー発祥の地として知られています。始めてこの地にスキーを伝えたのは飯山市愛宕町妙専寺の市川住職でした。明治45年(1912)の冬、高田連隊へオーストリアのレルヒ少佐が来て、一本杖スキー術の講習が行われ、この講習に長野県からたったひとり、体操教師だった市川住職が参加してスキー術を会得してきたそうです。
長野県スキー発祥の地



正受庵
しょうじゅあん
長野県飯山市飯山上倉1871
Tel 0269-62-3133 飯山市観光協会


 正受庵は臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴(はくいんえかく)の師であった道鏡慧端(どうきょう えたん)が座禅三昧の後半生を送った禅庵で、寛文6年(1666)に創建されています。昭和35年(1960)に長野県史跡に指定されています。
 慧端は、松代城主真田信之の庶子と伝えられ、寛永19年(1642)、飯山城で生まれました。万治3年(1660)、飯山藩主松平忠倶の参勤交代に伴って江戸に向かい、江戸麻布にあった東北庵の至道無難のもとで出家しました。
 松平忠倶からの寺領200石と堂宇建立寄進など固辞し、水戸光圀からの招請も2度も辞退したそうです。享保6年(1721)80歳で死去するまでこの地に留まりました。
 白隠慧鶴が、越後高田の英厳寺で悟りを開いたと豪語し、天狗になっていました。心配した慧端の弟子宗覚は慧鶴に正受庵を訪ねるように勧めました。慢さを見抜いて登ってきた白隠を慧端は山門から蹴落としたそうです。
 その後、白隠は慧端の教えのもとで、修行を積み、「駿河の国に過ぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」といわれる高僧になりました。
 正受庵は基本的に寺領を持たず檀家もいなかったため修業道場として利用されていました。文政3年(1820)に5世の東瞑が藩命により退去され無住寺となりました。弘化4年(1847)の善光寺大地震により大きな被害を受けました。
 明治6年(1873)に無住で檀家がいなかった事から正受庵は廃庵となり荒廃が進みました。明治17年(1884)、山岡鉄舟・高橋泥舟らが尽力を尽くし再興させ、寺宝を集めなおしました。 江戸の至道庵、犬山の輝東庵と共に天下の3庵として古来より知られ、「全国古寺名刹百選」に選ばれています。



西敬寺
さいきょうじ
長野県飯山市大字飯山奈良沢2125
Tel 0269-62-2149


 倉科片雄山西敬寺は真宗大谷派のお寺です。親鸞の弟子だった釈善巧(下総の岩倉刑部親経)により、建長7年(1255)倉科(現千曲市倉科)に建立されました。川中島の合戦の兵火により焼失したため、中野市牛出、飯山町深沢と移り、寛文12年(1672)に現在地に移ったそうです。
 現在の本堂は江戸時代中期に建立されたもので寄棟造り、金属板葺きです。同時期に建てられた茅葺きの山門や鐘楼などが、手入れの行き届いた庭の中にあります。
 西敬寺が所蔵している県宝の木造聖徳太子立像は、釈善巧が親鸞聖人の弟子となった記念に刻んでもらったといわれ、武田信玄の身代わりとなったとも伝えられています。



真宗寺
しんしゅうじ
長野県飯山市南町22ー17
Tel 0269-62-2679


 安養山真宗寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。慶応4年(1868)、旧幕府派の古屋作左兵衛門ら600名が飯山城下に侵攻し、この真宗寺を本陣としたことで有名です。新政府軍の松代藩兵2000名が千曲川東岸に布陣し鎮圧しましたが、飯山城下は兵火で炎上し、城下の半分を失いました。
 島崎藤村の「破壊」に登場する主人公・瀬川丑松が下宿する蓮華寺はこの真宗寺がモデルとされています。小諸市で教師生活を送っていた藤村は明治37年(1904)、真宗寺に泊まりがけで訪れています。境内には「破戒」の第1章を刻んだ文学碑が建てられています。
 昭和27年(1952)5月の大火で本堂、鐘楼、庫裡など7棟が焼失しました。六角屋根の経堂「転宝輪」だけは類焼をまぬがれて当時の姿を残しています。



小菅神社
こすげじんじゃ
長野県飯山市瑞穂内山7103
Tel 0269-62-3133


 小菅神社は白凰年間(645-710)に役小角(えんのおづの)が創建したと伝えられています。役小角は馬頭観音の化身とされる小菅権現を主神とし、あわせて熊野・金峯山(吉野)・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7柱の神々を加え、八所権現と称して祀ったといわれています。
 大同元年(806)、坂上田村麻呂が八所権現本宮と加耶吉利堂を再建したと伝えられています。明治の神仏分離までは、新義真言宗に属する別当寺の元隆寺大聖院が中心でした。
 室町時代の最盛期には本堂、講堂、三重塔、仁王門、鐘楼を構え、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を持ち、100の末院、6社、5堂が立ち並び、修験、山伏、僧侶が300人もいたそうです。戸隠、飯綱とならび北信濃の3大修験場として広く信仰され栄えました。
 戦国時代には、越後上杉領になり、上杉氏から庇護され、弘治3年(1557)には上杉謙信が戦勝祈願に願文を奉納、天文年間(1532-1555)には小菅神社奥社本殿が造営されました。
 永禄4年(1561)、川中島の戦いで、武田信玄の侵攻をうけ、奥社を残し諸坊、社殿が焼失してしまいました。その後も度々戦に巻き込まれ衰退しました。慶長3年(1598)には上杉景勝が会津移封になり、元隆寺大聖院も移っていきました。
 江戸時代に入り再興され、歴代飯山藩主によって庇護されました。慶長11年(1606)、皆川氏より絵馬2面が寄進され、万治3年(11660)、松平忠倶によって社殿や堂宇の一部が再建されました。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により元隆寺大聖院が廃寺となり、寺宝、仏式諸道具などが菩提院に移され、小菅社八所大神となりました。その後、明治33年(1900)に小菅神社と改称されました。
 小菅の里には里宮があり境内には神饌殿、神与殿、神楽殿、講堂など万治3年(1660)頃に飯山城主の松平氏によって改築された建物が残っています。平成14年(2002)に公開された映画「阿弥陀堂便り」の舞台となりました。

 小菅神社奥社は天正19年(1592)に棟梁・小野源之丞政高によって修復されています。前面は懸造りで、背面は崖に接するように造られています。桁行4間、梁間2間の一重の入母屋、妻入、銅板葺きです。室町時代の建築様式を伝えています。昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定されています。本尊は馬頭観音木像です。
小菅神社奥社

 小菅神社里宮にある講堂は、もともとは元隆寺大聖院の中之院に属していました。元禄10年(1697)に飯山城主の松平氏によって修復されました。中には阿弥陀三尊像が安置され、7月の中旬には小菅の松子という祭りがこの場所で奉納されます。
里宮の講堂
 小菅の松子とは小菅神社の柱松柴灯神事で、昭和52年(1977)に長野県の無形民俗文化財に指定されました。7世紀から続く天下の奇祭で、修験者の験比べとその年の豊作を占ったのが始まりと伝えられます。講堂の前の広場で、雑木を藁で束ねた高さ4mの柱松2本を立てます。この2本の柱に松神子が登り、火打石と火打金を使って点火するまでの速さを競い合う神事です。
里宮の講堂

 菩提院は、もとは元隆寺大聖院の山内寺院の一つ、桜本坊でした。享保年間(1716-1735)に中興開基されたという真言豊山派の寺院であり、大日如来が本尊です。明治時代の廃仏毀釈の際、元隆寺大聖院は小菅神社となり、桜本坊が仏教寺院菩提院として残され、大聖院の仏教関係什器が移されました。
菩提院



菜の花公園
なのはなこうえん
長野県飯山市瑞穂491
Tel 0269-62-3133 飯山市役所農林課内


 菜の花公園では菜の花まつり期間の前後4月下旬から5月中旬頃まで800万本もの黄色の菜の花を見ることができます。雪が残る北信濃の山々と雄大な千曲(ちくま)川に囲まれて信州の自然を堪能できます。菜の花まつり期間中は、朧(おぼろ)月夜音楽祭などさまざまなイベントが開かれます。
 「菜の花畑に入り日薄れ見わたす山の端かすみ深し 春風そよ吹く、空を見れば、夕月かかりて、にほひあはし」と歌われる唱歌「おぼろ月夜」に歌われた場所だといわれています。
 「おぼろ月夜」を作詞した高野辰之は下水内郡豊田村(現中野市永江)の豪農の出身で長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業しました。岡野貞一が作曲し大ヒットしました。小高い丘には歌碑もあります。


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