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信州長野の旅と歴史
信州・中信の旅    安曇野

穂高神社
ほたかじんじゃ
長野県安曇野市穂高6079
Tel 0263-82-2003


 穂高神社は、安曇市にあり、穂高見命を祭神として祀っています。里宮と奥宮があり、古くから信濃の大社として名高く、里宮は日本アルプスの総鎮守として、交通安全の守神として信仰を集めています。
 奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。
 かつて北九州を拠点にしていた海洋民族の「安曇族」が日本海を北上し、この地に移り住み、不毛の地であった安曇平を開墾したといわれています。
 穂高神社はその安曇族を祭る神社であり、毎年 9月27日には、海洋民族の名残を伝える「御船祭り」が開催されています。
 安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。
 後醍醐天皇の延長5年(924)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられているそうです。
 古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功をたてたと伝えられています。
 隣接地にある御船会館には、穂高神社や安曇族に関する資料が公開されています。本殿は穂高岳のほうを向くようにして建てられています。



碌山美術館
ろくざんびじゅつかん
長野県安曇野市穂高5095−1
Tel 0263-82-2094


 碌山美術館は明治に生きた穂高町出身の彫刻家、荻原守衛(碌山)の美術館です。彼の作品と資料を永久に保存し、一般に公開するために昭和33年(1958)4月、29万9100人の力によって、碌山の生地である北アルプスの麓・安曇野に開館しました。
 古いレンガの建物は、教会風で趣があります。桜の咲く今、紅葉もきれいです。静かな雪の季節も魅力的です。四季折々の風景を庭のベンチで過ごすのもいいでしょう。
碌山は、水星の如く登場し東洋のロダンと呼ばれました。将来を嘱望されながら、明治43年(1910)、32才の若さで他界しました。北上虎吉像や女は重要文化財に指定されています。

 新館には高村光太郎、戸張孤雁・中村氏悌次郎の作品も展示されています。赤煉瓦に蔦の絡む建物がそれらの作品を見つめています。
 碌山が残した最後の作品「女」は特に有名です。それは人妻、相馬黒光への熱い思いが伝わってくるようで圧倒される感じです。この作品は、日本近代彫刻の最高傑作といわれています。
 フランスに渡り、ロダンに師事し、これからというときに亡くなるとはさぞ無念であったでしょう。
 碌山と関係の深い優れた一群の芸術家たちの作品も蒐集保存していて、日本近代彫刻を保存しています。



早春賦の碑
そうしゅんふのひ
長野県安曇野市穂高川右岸
Tel 0263-82-9363 穂高駅前観光案内所


 大正時代、「故郷を離るる歌」「四つ葉のクローバー」などで有名な作詞家吉丸一昌氏がこの地を訪れました。安曇野の風景に感動し創った「早春賦」の歌碑が穂高川岸にあります。
 穂高駅より貸自転車に乗って、散策がてら訪れてみても良いと思います。穂高川とアルプス連峰のコントラストがとても素晴らしいです。
 早春賦は、大正2年(1913)、吉丸が安曇野の早春を歌った唱歌です。作曲は中田章です。
 「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌を思えど 時にあらずと聲に・・・」この愛唱歌は誰からも愛されています。
 毎年4月には「早春賦音楽祭」が開かれ、地元をはじめ全国各地から自由参加によるコーラス祭が盛大に開かれているそうです。



安曇野わさび田
あずみのわさびだ
長野県安曇野市穂高
Tel 0263-82-9363 穂高駅前観光案内所


 早春賦公園の裏のわさび田には遊歩道が設けられており、わさびの緑と清水の流れと春の北アルプスがなかなかのコントラストを見せています。
 北アルプスを源とする梓川及び高瀬川扇状地の末端では、良質で豊富な湧水(日量70万トン)に恵まれています。これを利用し、穂高町では大規模なわさびの栽培、ニジマスの養殖などが行われています。
 穂高の名産品として、わさび、天蚕とともにニジマスも有名なのです。ニジマスは澄んだ、清冽な水を好み、わさび田を流れる水を利用して育成されています。穂高の伏流水で育った身の引き締まったニジマスは他に類を見ない美味を誇っています。
 わさびはあぶらな科に属しています。水温13℃内外の地下水を利用して栽培します。烏川扇状地帯は古生層の礫栽培、中房川扇状地帯は花崗岩の風化した砂栽培です。
 近くには大王わさび農園もあります。敷地面積45,000坪の世界一の規模の広大なわさび園です。
 旅行ツアーに組み込まれていて、週末ともなれば観光バスがずらりと並ぶ人気のスポットです。園内は歩道が整備され、一面のみずみずしいわさび園を散歩できます。

 野鳥のさえずりも聞こえてきて、なかなかいい気分です。アルプス連峰には白い冠があります。穂高川は雪解けの水が流れ澄んでいます。




松尾寺
まつおじ
長野県安曇野市穂高有明7327
Tel 0263-83-4171


 松尾寺は過去帳によると大永8年(1528)、仁科盛政を開基として開かれたようです。古くは醍醐寺三宝院の末寺でしたが、のちに真言宗に改宗されています。仁科氏は鎌倉時代から室町時代にかけて、北安曇から南安曇周辺を支配していたようです。
 明治の廃仏毀釈により一時廃寺となり衰退しました。現在残っている堂宇は創建時に建立されたと推定される本堂の薬師堂と仁王門の仁王堂だけです。本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定されています。
 本堂は桁行3間、梁間3間、1重寄棟造りで、銅板葺きです。軒の出を非常に深くし、軒の支柱を建立当初から建てて5間堂のような形式を持っています。このような建物は全国的にあまり見られない形式のものです。
 舟肘(むなひじ)木の形式も実に美しく、縁廻りに立つ支柱が縁柱を兼用し、面を大きく取り、室町時代の特徴をいかんなく発揮しています。地垂木(じたるき)の曲線においては反りが強く、美しいシルエットです。蟇股、鬼板などの細部にも室町時代の特徴や地方色が見られます。



住吉神社
すみよしじんじゃ
長野県安曇野市三郷温(ゆたか)楡5932
Tel 0263-77-2709


 住吉神社は、表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉3神と健御名方命・神功皇后を祀る旧県社です。鬱蒼とした老杉に囲まれ、参道の両脇には燈籠や末社が続きます。拝殿の前には、額を掲げている神楽殿があり、荘厳な雰囲気が漂います。
 住吉神社の創建は大同年間(806-810)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が勧請したのが始まりと伝えられています。田村麻呂は有明山の麓で勢力を張っていた八面大王(はちめんだいおう)という鬼を成敗して、悪政から救ったとされています。
 住吉神社は歴代領主にも崇敬され、長徳年間(995-999)には国司の藤原惟正が社殿を修復し、永禄12年(1569)には武田信玄が社殿を修築しています。江戸時代にも歴代藩主から庇護され社領や祭祀料などが寄進されています。
 本殿は間口16尺(483cm)、5間社流造りで銅板葺き(もとはこけら葺き)です。天明6年(1786)に大工・松原平八によって再建されたものです。装飾の少ない復古様式で、 平成5年(1993)に安曇野市の有形文化財に指定されています。
住吉神社本殿
 向拝と母屋(もや)組物は舟肘木(ふなひじき)で古代から続く社殿の雰囲気をもっています。頭貫の上には菊の彫刻。 千木と鰹木を3本乗せている点は、大阪の住吉大社と同じ屋根飾りとなっている。
住吉神社本殿
 住吉神社の御神木はヒノキです。幹周り約5.5m、樹高約33mで樹齢約千年といわれています。住吉神社の社叢では最大の巨木です。御神木は安曇野市の天然記念物に指定され、住吉神社の社叢は安曇野市の有形文化財に指定されています。
住吉神社御神木
 境内には坂上田村麿呂の像が建てられています。光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の時代に征夷大将軍として蝦夷征伐をした将軍です。鬼退治の英雄としても有名で 安曇野地方では 「八面大王」という鬼を成敗し、住吉神社を奉遷しました。
住吉神社坂上田村麿呂像



熊野神社
くまのじんじゃ
長野県安曇野市三郷明盛3319−1
0263-82-3131 穂高総合支所商工観光部


 熊野神社は貞享義民記念館の裏にあり、大きな鳥居に続き、神楽殿、拝殿、本殿が配されています。応永9年(1402)の社伝記によると、熊野神社は白雉元年(650)、熊野新宮より分霊を祀り、旧中萱村の氏神としたのが始まりと伝えられています。
 貞享3年(1686)、安曇郡長尾組、中萱村の元庄屋、多田加助を中心とした同志11名が、ここ熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練りました。その後、減免求め5か条の訴状を提出し、1万もの百姓が松本城へ押し寄せました。
 藩主・水野忠直は不在で、城代家老は要求をのむとして引き取らせ、後に年貢減免の約束を反故にし、多田加助とその一族、同志ら28人が磔、獄門などの極刑に処せられました。貞享義民騒動といわれ、隣には貞享義民記念館が建てられています。
 本殿は間口9尺(294cm)、奥行4尺(122cm)、三間社入春日造り、銅板葺き(もとはこけら葺き)で、寛永14年(1637)に大破後に再建されたものです。正面の向拝の蟇股に社紋の抱茗荷(だきみょうが)が見られ、木鼻には象の彫刻が彫られています。平成5年(1993)に安曇野市の有形文化財に指定されています。
熊野神社本殿
 明治40年(1907)に合祀された旧八坂神社本殿は、安曇野市指定有形文化財で、拝殿の左側に鎮座しています。間口4尺5寸(136cm)、奥行3尺7寸(112cm)、一間社の流造り、銅板葺き(元こけら葺き) です。虹梁や木鼻の絵様に延宝から元禄期にかけての様式がみられ、この辺り一帯では、熊野神社本殿の次に古い建造物と推察されています。
熊野神社旧八坂社本殿



光の五社
ひかりのごしゃ
長野県安曇野市明科光山岸697−イ
Tel 0263-82-3131 穂高総合支所商工観光部


 光の五社の社殿は古くは犀川(さいがわ)べりの字古宮の地に鎮座していました。安永8年(1779)に犀川の洪水で崩落の危険が生じたため、現在地の字山岸に遷座されました。
 旧本殿は明治35年(1902)の火災で焼失したため、明治44年(1911)に再建されました。正面3間、側面2間の大杉の入母屋造り、銅板葺きです。正面屋根には大きな千鳥破風、向拝には唐破風をしつらえ、向拝、軒下、縁下には組物を多用して、豪華な建物となっています。
 建物全体にわたって施された彫刻は、諏訪立川流の清水虎吉の最晩年の作です。虎吉は松本市清水に住み、立川専四郎富種のもとで修行し、立川流の奥義を受け継ぎました。「うずらと粟」の彫刻などは見事です。
 光の五社の本殿は明治44年(1911)に建てられた本格的神社本殿建築で、平成20年(2008)に安曇野市有形文化財に指定されています。



曽根原家住宅
そねはらけじゅうたく
長野県安曇野市穂高有明1632
Tel 0263-83-2359


 曽根原家は江戸時代初期、松川組新屋村に土着し、代々庄屋をつとめた豪農です。戦国時代、この地方の豪族仁科氏の一党で、仁科氏が武田氏に敗れた後に帰農して南原村に住んだと伝えられています。
 曽根原家住宅は建築年代がはっきりしない点がありますが、解体修理工事の調査によって、構造・工法などから17世紀後半までは下らない慶安前後(1650年頃)と推定されています。
 主屋は桁行7間、梁間8間で北面の東西に桁行2間の2つの突出部分が付いています。切妻造り、平入り板屋葺きで、長坂石置屋根、見せ抜きの建築です。江戸時代前期の本棟造りの民家としては日本最古のもので、昭和48年(1973)に国の重要文化財に指定されています。
 土間が入り口付近4間半、奥行き8間と広くスペースをとっています。土間の東南隅に3間4方の馬屋(まや)があります。 建物面積の半分までが土間と馬屋というのは「本棟造り」では最古の形式といわれています。



山口家住宅
やまぐちけじゅうたく
長野県安曇野市堀金烏川70
Tel 0263-72-4216


 山口家はお寺のような門構えで、広大な敷地を取り囲んでいる長い塀の中にあります。塀の横にある田んぼでNHKの朝の連続ドラマ「おひさま」の撮影が行われ、セットなど残されていて大勢の観光客が訪れています。
 山口家は江戸時代、長尾組を統括する大庄屋を歴任した家柄です。主屋は元禄時代初期に建てられた本棟(ほんむね)造りです。長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるいな勾配の屋根が特徴です。
 ここでは豪華絢爛な書院と庭園などが見学できます。庭を見渡せる床書院つきの上壇の間には、松本藩主がたびたび逗留したそうです。日本画家の山口蒼輪(そうりん)の生家で、明治27年(1894)、北アルプスを広く紹介したウィンストンも常念岳に登山する際に宿泊したそうです。
 庭園は書院の北側に配され、建物とともに元禄期の作庭と推定されています。面積は700平方mで、中央に75平方mの池泉があります。「心」という字を表す「心字の池」があり、出島、亀島、滝の石組、板橋、切石橋を配し、安曇野市の文化財に指定されています。


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